群馬県は台湾と縁が深い。奇美実業創業者の許文龍氏は台湾に功績のあった日本人の胸像を制作
していることでも知られるが、これまで後藤新平(ごとう・しんぺい)、八田與一(はった・よい
ち)、羽鳥又男(はとり・またお)、浜野弥四郎(はまの・よしろう)、新井耕吉郎(あらい・こ
うきちろう)、鳥居信平(とりい・のぶへい)、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)、磯永吉(い
そ・えいきち)、末永仁(すえなが・めぐむ)の9名の胸像を作っている。
このうち2名が群馬県出身だ。羽鳥又男と新井耕吉郎である。群馬にはその他にも台湾に功績を
残した人々が何人もいる。
この群馬と台湾の深い結びつきについて、群馬県立歴史博物館の学芸員時代に『群馬学とは』の
著書もあり、この3月に『羽鳥重郎・羽鳥又男読本』を執筆された手島仁(てしま・ひとし)氏に
機関誌「日台共栄」6月号の巻頭エッセイ「台湾と私」欄で書いていただいた。下記にそれをご紹
介したい。
なお、7月26日に行う「第20回台湾セミナー」は、手島仁氏を講師に、特別ゲストに本会の小田
村四郎会長をお招きして開催する予定だ。
手島氏が巻頭エッセイで触れているように、芝山巌事件で亡くなった「六士先生」の1人に群馬
県出身の中島長吉がいるが、当時の群馬県令(現在の県知事)だった楫取素彦(かとり・もとひ
こ)の子息、楫取道明も殉死した六士先生の一人だ。
実は楫取県令は小田村会長の曽祖父。つまり、小田村会長は楫取素彦の曾孫で、芝山巌事件で亡
くなった楫取道明は祖父の弟、大叔父に当たる関係。小田村会長も群馬との縁は深い。
そこで、7月の台湾セミナーにお招きするという次第だ。後日、詳しい案内を掲載するが、下記
に日時と会場のみご紹介したい。
◆第20回台湾セミナー
日 時:平成26年7月26日(土)14時〜17時(13時30分、受付開始)
会 場:文京シビックセンター 4階 ホール
群馬と台湾の深い結びつき
本会理事、前橋市文化国際課副参事・歴史文化遺産活用室長 手島 仁
今年3月、『羽鳥重郎・羽鳥又男読本』が刊行されました。郷土の埋もれた偉人を発掘し、多く
の市民にその存在を知ってもらうとともに、台湾との親善を深めることを目的に、富士見商工会が
企画し、文章は私が担当しました。
羽鳥重郎は、台湾の風土病の撲滅に功績のあった医学博士で、羽鳥又男は昭和17年から台南市長
をつとめ善政を施した政治家です。
2人を研究することになったのは、平成17年のことでした。当時、学芸員だった群馬県立歴史博
物館に、羽鳥又男三男の羽鳥直之氏と元富士見村長の関口隆正氏らが見えられ、台湾の実業家・許
文龍氏が羽鳥又男の胸像を贈りたいとの意向で、当館で常置できないかという相談でした。ただ、
富士見村は前橋市との合併問題で村を二分する対立が続き、銅像受け入れを議論する余地はありま
せんでした。
博物館では常設展示できませんでしたので、ご指導いただいている平成国際大学名学長の中村勝
範先生に相談しましたところ、羽鳥又男は日本では無名の存在なので、まずその人物を広く知って
もらうため日台関係研究会の例会で報告してみてはどうかと、その機会を与えてくださいました。
平成18年6月例会で、楊合義・平成国際大学名誉教授・羽鳥直之氏と私による鼎談「最後の日本人
台湾市長羽鳥又男」が実現しました。会場には小田村四郎先生もお見えくださいました。中村先生
は、この鼎談を機関誌「日本と台湾」平成18年9月号に、また『東アジア新冷戦と台湾』(早稲田
出版)に収めてくださいました。同書のあとがきで「羽鳥又男の徳と台湾市民のかかわりの記録が
消滅するに忍びず、日台関係研究会の機関誌に全記録を掲載し、本書に全文を再録した」と述べて
います。
その後、羽鳥又男の胸像は羽鳥家の菩提寺である珊瑚寺に安置されることになりました。平成19
年4月に除幕式が行われ、台湾駐日代表処から李世昌・文化部長も出席されました。
翌20年、許文龍氏から今度は「台湾紅茶産業の父」と呼ばれている新井耕吉郎の胸像が贈られ、
郷里の沼田市利根町園原に建立されました。10に行われた除幕式には、許氏の名代として作家の平
野久美子氏が出席されました。
許文龍氏から贈られた胸像をきっかけに、群馬県と台湾の関係を調べてみると、驚くべき事実が
分かりました。
吾妻郡原町(東吾妻町)出身の石坂荘作は、明治36年に台湾で最初の夜学校「基隆夜学校」を創
設。日本人でも台湾人でも、昼間学校へ行けない者に門戸を開き、授業料は不要でした。明治42年
には市立図書館「石坂文庫」を創設し、石坂は「基隆の聖人」とか「台湾図書館の父」と呼ばれて
いました。
碓氷郡松井田町(安中市)出身の中島長吉は「六氏先生」の一人でした。明治30年、伊沢修二の
篆額になる「中島長吉之碑」が建てられ、現在も同地に保存されています。
キリスト教主義の共愛学園は群馬県最古の女学校を前身としています。台湾人の周再賜は大正14
年から昭和40年まで40年間も校長をつとめ、多くの県民から敬愛され、群馬の昭和期を代表する教
育者でした。
昭和22年に誕生した『上毛かるた』の歴史的源流は、台湾伝道をしていた碓氷郡板鼻町(安中
市)出身の牧師、須田清基が、台湾の子供たちの教育のために始めた『台湾いろはかるた』でし
た。上毛かるたは、群馬交響楽団と並ぶ戦後群馬の二大文化です。
群馬県と台湾の間にはこのような素晴らしい歴史があります。これを共有財産として、群馬県か
ら日本と台湾の両国の絆を、ますます深めていきたいと思います。
【機関誌「日台共栄」6月号「台湾と私(35)」】