片倉 真理 KATAKURA Mari台湾在住作家、コーディネーター。メディア取材のコーディネーションの傍ら自身も筆を執り続け、2018年4月に台湾生活19年間の集大成として、日本では初の単著となる『台湾探見―ちょっぴりディープに台湾(フォルモサ)体験』(ウェッジ)を出版。さらに深く台湾を知りたいという多くの読者からの支持を集めている。
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片倉真理の作品は、自身が体感した台湾を知る喜びを読者と分かち合いたいという思いにあふれている。台湾史研究家で作家の夫、片倉佳史の取材に同行して台湾各地の伝統行事を体験し、日本統治時代の史跡や先住民族の集落を巡るうちに、自らも台湾の魅力を伝える役割を担うようになっていった。
◆できるだけ多くの日本語世代の人々の言葉を記録して伝えていきたい
片倉が最初に台湾の土を踏んだのは1994年。台湾の民主化が始まって間もない頃だった。その後も何度か旅行で訪れたことはあったが、台湾に本格的に拠点を移したのは、大学の合気道サークルの先輩で、97年に既に台湾に居を構えていた佳史との結婚がきっかけだった。99年のことだった。
その頃、台湾に対する知識はほぼ皆無に等しかったと片倉は振り返る。当時の日本では台湾を紹介する書籍が限られ、テレビ番組などで取り上げられることもまれだった。しかし、夫の取材に同行して台湾各地の伝統行事に参加し、日本統治時代の史跡や先住民族の集落を訪ね、現地の古老から話を聞くうちに、台湾の魅力にはまっていく。台湾を知れば知るほど、この島は新鮮な驚きを彼女に与えてくれた。
「台東の太麻里郷の先住民族の集落を初めて訪れた時のことでした。そこに住んでいたおじいさんが、半世紀ぶりに日本人に会ったと言って、流ちょうな日本語で話し始めたのです。日本語を話したい、自分たちの歴史を知ってほしいという気持ちに満ちあふれていました。さらに驚いたのは、そのおじいさんの子どもたちが、自分の親が日本語をこれだけ自在に操れる事実を全く知らなかったことでした。この世代間のギャップに疑問を思ったことが、台湾をもっと知りたい原点になりました」
日本の敗戦と中華民国による台湾の接収、二二八事件の発生とその後の白色テロの時代、戒厳令が敷かれ、学校教育の現場では日本語はもちろん、母語である現地語を話すことさえ禁じられた台湾の戦後史。こんなに日本に近く、行き来もある場所なのに自分の知らないことばかりだった。教科書では習うことのなかった歴史を、台湾各地で出会った日本語世代のお年寄りから教わることとなった。折しも陳水扁総統が誕生し、長らく封印されてきた過去をようやく誰もが語れる時代とも重なった。
「政治犯として緑島に収容されていた老人が、淡々と昔のことを語ってくださったことがありました。当事者としての深い悲しみの中にも、感情を抑え自分の運命を静かに受け入れている姿に胸を打たれました。こうした先人の知恵や経験を自分たちだけで聞くのはもったいない、より多くの方々と共有していかなければならないと、思いを強くしました」
できるだけ多くの日本語世代の人々と交流し、その言葉を記録し、より多くの人に伝えていくことが自分たちの使命ではなかろうか。既に高齢となった日本語世代の人々から直接話を聞ける時間は、それほど多く残されているわけではない。2017年、夫が「台湾を学ぶ会」を立ち上げた。日本にいる台湾に関心のある人々と、自分たちが台湾で学んだ知識や経験を分かち合うこの活動を全面的にサポートし始めたのもそんな思いからだった。
◆日本語世代の孫たちにも注目
片倉は日本語世代の孫たちの動向にも注目している。日本語世代が、「愛日」という表現で自分たちの生きた日本統治時代を主観的に語る傾向があるのに対し、現在の30〜40代前半の孫の世代は、より客観的にその時代を捉えようとしている。そして、台湾人としての自らのアイデンティティーを模索する中で、祖父母の生きた時代にその源流を見出していると片倉は考える。
「高雄で季刊誌『薫風』を主宰する姚銘偉(よう・めいい)さんは、兵役時代に台湾の歴史に関心を持ち始め、日本統治時代も台湾史の一部であるという考えに行き着いた方です。昨今、台湾各地で見られる日本統治時代の建築物の保存の動きも、日本が好きだからそうするのではなく、自分たちの郷土に刻まれた歴史を残すという文脈で捉えています。これは非常に健全な方向です。彼らの世代は『知日』の体を採りながらも、その実は『知台』なのです」
戦前、台北市にあった建成小学校の同窓会に「建成会」という組織がある。2年前に台北市で会合を開いたところ、地元から200人以上の参加があった。日本語世代に混じって30〜40代の知台世代が多数参集した。彼らの親の世代までは、「族群(エスニックグループ。先住民族、ホーロー人、客家人、外省人の四つに分類)」意識が強く、時には族群間の対立を生み出すこともあった。今もこの枠組みは存在するが、知台世代の多くは、ある概念を共有すれば人々が一つにまとまることは可能だと考えている。
「『土生土長』、すなわちこの土地で生まれ育った人たちは、みんな台湾人であるという概念です。戦後70年以上が過ぎ、本省人と外省人の通婚も進み、4年前に『太陽花学運(ひまわり学生運動)』を主導した『天然独(自分が生まれた時からそもそも台湾は独立した国であるという考え)』の世代も台頭してきています。今のトレンドや文化を引っ張っているのも、知台世代とそれに続く彼らなのです」
台湾では「自分たちの文化とは何か」という問いを模索する時期が長らく続いた。だが、今ではこの問いに対して、台北101や故宮博物院だけではなく、祖父母の家の壁や床にあったタイルや、アパートの窓枠、さらにはレトロな花模様の布など、この土地にあるあらゆるものが台湾文化なのだと、世界に向かって堂々と発信できる時代になったと知台世代は感じている。また、これらをデザイン化し、店名や商品にさり気なく、おしゃれに入れ込むのがトレンドにもなっているという。
◆徹底した取材が読者を魅了
東日本大震災以降、日本人の台湾に対する関心は飛躍的に高まった。台湾を訪れるリピーターも急増し、これまでの台北とその近郊、高雄、台中といった定番の観光地だけでは飽き足らず、地方へと足を延ばす層も着実に増えている。特にここ数年は台南がブームで、台南を特集した単行本やガイドブック、雑誌が多数出版されている。台湾の地方都市の魅力について、片倉はこう語っている。
「その土地ごとに漂う異なる空気感が好きなのです。例えば、嘉義という街は、これまでは台北から高雄や台南に向かう通過点にしか過ぎませんでしたが、実際に散策してみると『嘉義スタイル』と呼ぶべき独特な文化があることに気付きます。嘉義で『鶏肉飯』といえば、鶏肉ではなくて七面鳥の肉。『涼麺』と呼ばれる常温の汁なし麺は、他の土地ではごまだれが一般的ですが、嘉義ではさらにマヨネーズが載っています。豆乳に豆花を入れたデザート『豆漿豆花』も、実は嘉義が発祥です」
片倉の関心は都市だけに留まらない。観光ガイドブックでは取り上げられることのなかった小さな町や村にも、温かな眼差しを向けている。雲林県の土庫鎮の媽祖廟には、日本統治時代に群馬県の吉祥寺から持ち込まれた観音像が一緒に祭られている、彰化県の社頭郷の駅前には、この地の地場産業の靴下の博物館がある、苗栗県白沙屯を拠点とする媽祖巡礼では、媽祖像の乗るみこしを衛星利用測位システム(GPS)で追跡できるなど、そのネタは尽きない。そして取材する片倉のそばには、カメラを構える夫の姿がある。新著の『台湾探見―ちょっぴりディープに台湾(フォルモサ)体験』でも、写真は夫が担当した。
「夫は物書きの先輩であり、良きアドバイザーでもあります。同じ事象でも2人の見る角度が違うので、かえって気付きを与えてくれ、自分の視野を広げてくれます。文章に合わせて写真を撮ってくれるのも心強いです」
年配者への取材の現場では、同性同士の方が心を許して話してくれることも多いという。相互補完できることがペアで取材することの強みでもあり、まさに「水魚の交わり」を地で行く2人の姿がそこにある。民間企業の営業畑から、特に大きな決意もなく、台湾に足を踏み入れてしまったという片倉だが、台湾生活術の極意をこんな表現で語ってくれた。
「台湾では流れに任せることです。気負わずに一つ一つのご縁を大切にし、時には日本人が重きを置く計画性やこだわりをいったん手放してみるのも必要です。雑誌やデザイナーショップを展開する『小日子』のオーナーの劉冠吟(りゅう・かんぎん)さんの言葉ですが、『新しいことに挑んで失敗したことよりも、台湾では挑戦したことを褒めたたえる』というのが、この土地の空気感なのです」
片倉は「台湾は誰かにその魅力を伝えたくなるパワーを秘めた土地」と繰り返し述べている。外国人でも旅人でも受け入れてくれる敷居の低さと懐の深さ。知りたい問いへの答えに確実にたどり着ける心地良さ。こうした魅力を前面に押し出しながらも、片倉の筆は一つ一つのテーマを丁寧に掘り下げ、紹介した店の裏側に潜む店主の思い、その土地に暮らす人々の郷土への思い、読者がその土地の空気感を知るために役立つヒントなどを次々と描き出していく。そして、彼女の文章からは、一貫して台湾という土地とそこに暮らす人々への深い共感と愛情を感じ取ることができるはずだ。最後に座右の銘を聞いてみた。
「警察用語で私たち夫妻がモットーとしていることですが、『現場百回(げんじょうひゃっかい)』という言葉です。現場に何回も行って初めて見えてくるものがあるのです。新著の書名『台湾探見』の『見』にも、そんな思いが込められています」
徹底した現場主義の取材と書き手の豊かな感性に裏打ちされ、「台湾を知る喜び、学ぶ楽しさを分かち合う」ことを旨とする片倉の作品は、これからも台湾を知りたがっているファンの心をくすぐり続けることだろう。次回作が今から待ち遠しい。
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馬場 克樹(ばば・まさき)シンガーソングライター。1963年仙台市生まれ。国際交流基金日中交流センター事務局次長、財団法人交流協会台北事務所文化室長を歴任。退職後、2013年台湾で蒲公英音楽交流有限公司を設立。「八得力(Battery)」でボーカルとギターを担当。ソングライターや俳優としても活動する。代表曲には映画『光にふれる(原題:逆光飛翔)』の主題歌で、台湾金曲奨最優秀女性ボーカリストの蔡健雅(タニア・チュア)が歌った「很靠近海(海のそばで)」がある