産経新聞「歴史に消えた唱歌」に蔡焜燦氏や斎藤毅・台湾協会理事長が登場

唱歌教育を通じて日本統治の実態が明らかに

 産経新聞が4月3日からオピニオン面で「歴史に消えた唱歌」を連載しはじめた。執筆は
文化部編集委員の喜多由浩(きた・よしひろ)記者だ。

 日本統治時代の台湾や朝鮮では独自の唱歌が多数作られ、当地の子供たちに愛され歌わ
れていたが、戦後はそれらの唱歌が忘れ去られていった。

 そこで、喜田記者は「かつて日本が統治した地域で子供たちに愛唱された唱歌。戦争を
はさんで忘れ去られていった『幻の唱歌』を追う」として、連載が開始された。

 初回は「台湾、朝鮮にもあった『幻の唱歌』」で、どのようにして台湾や朝鮮で独自の
唱歌が作られていったかを追い、山田耕筰をはじめ中山晋平、信時潔、野口雨情、島木赤
彦、北原白秋などそうそうたる「巨匠」が作曲に作詞にいそしんでいたかを紹介している。

 本日の第2回は「『唱歌の父』が台湾で描いた夢」で、「唱歌の父」と呼ばれる台湾総督
府学務部長をつとめた伊沢修二の台湾での取り組みを主に紹介している。

 私どもとも親しくしていただいている蔡焜燦氏(李登輝民主協会理事長、台湾歌壇代表)
は、初回にも今回にも登場する。また今回は、台湾協会理事長で新竹生まれの湾生である
斎藤毅(さいとう・つよし)氏も登場している。

 この「歴史に消えた唱歌」は、日本統治下の台湾や朝鮮を舞台にしていることから、そ
の統治の実態にも触れざるを得ない。NHK「JAPANデビュー」問題を持ち出すまで
もなく、日本は台湾や朝鮮を「侵略」して住民を「弾圧」したとするような歪んだ歴史観
が未だにくすぶっている現在、この記事はバランスのとれた公平な史観で書かれていると
思う。何より、現地の教師たちがいかに熱心に教育に取り組んでいたかを明らかにしてい
る点で、ぜひ読んでいただきたい内容だ。下記に、本日の第2回分を紹介したい。

 なお、記事中に芝山巌事件で犠牲となった六士先生の一人として「中島長吉」(なかじ
ま・ちょうきち)の名が出てくる。かつて本誌で手島仁氏の『群馬学とは』を紹介したと
き触れたように、中島は群馬県出身だ(本誌2010年8月19日発行、第1234号)。『群馬学と
は』では中島の事績も詳しく取り上げているのでご参照いただきたい。

 ちなみに、本会の小田村四郎会長の曽祖父が吉田松陰の義弟で群馬県令(知事)を務め
た楫取素彦(かとり・もとひこ)で、亡くなった六士先生の一人がその次男の道明だ。道
明は小田村会長の祖父に当たる。『群馬学とは』では、息子を喪った楫取県令が、同じく
息子を喪った中島家を訪れ、漢詩を贈って両親を慰めたというエピソードも紹介している。

■ 台湾、朝鮮にもあった「幻の唱歌」(産経新聞:2011年4月3日)
  http://sankei.jp.msn.com/life/news/110403/art11040307280001-n1.htm

■「唱歌の父」が台湾で描いた夢(産経新聞:2011年4月3日)
  http://sankei.jp.msn.com/life/news/110410/art11041007380001-n1.htm

■ 良書紹介−手島仁著『群馬学とは』(2010年8月19日発行、第1234号)
  http://melma.com/backnumber_100557_4942404/


歴史に消えた唱歌(2)「唱歌の父」が台湾で描いた夢
文化部編集委員 喜多 由浩
【産経新聞:2011年4月10日】

 《扶桑の空に高光る わが日のみこのまつりごと》…“老台北(ラオ・タイペイ)”こ
と、蔡焜燦(83)は、いきなり歌い始めた。「覚えている唱歌はありませんか?」と問う
たときのことである。

 この歌は、日本時代の台湾で作られた独自の唱歌『始政記念日』だ。1895(明治28)年6
月17日、日清戦争に勝利し、台湾の領有権を得た日本が、統治を始めた日のことを歌って
いる。以来、その日は祝日となり、蔡のような台湾の子供たちが通った公学校や、主に日
本人子弟が通う小学校でも必ず、歌われた。いわゆる儀式唱歌のひとつである。

 「(始政記念日の)年号や日にちまで言えますよ。日本人も台湾人もみんな、この日は
学校へ行ってこの歌を歌ったものです」と、蔡は約100年前に作られた歌の一番の歌詞を最
後まで歌い切ってみせた。

 長く、大陸から“化外の地”とされてきた台湾に近代教育をもたらしたのは日本であっ
た。そのリーダー役を務めたのが、台湾総督府の初代学務部長に就任した伊沢修二である。

 信州・高遠出身の伊沢は、明治新政府の官吏となり、アメリカへ留学、音楽教育の重要
性を認識した。日本に戻り、東京師範学校校長や文部省音楽取調掛長に就いた伊沢は、ア
メリカから留学時代の師であるメーソンらを招いて、西洋音楽を柱とした音楽(唱歌)教
育を日本に導入すべく奔走する。自らも作曲をして、「小学唱歌」集も編纂(へんさん)
した。

 ところが、政府幹部との対立などによって伊沢は道半ばで下野してしまう。そして伊沢
は、「その夢」を新天地・台湾に託そうとしたのである。

◆台湾が早かった必須化

 「(伊沢は)日本の音楽教育の基礎をつくった人ですが、すんなり受け入れられたわけ
ではなく、唱歌が必須科目になったのは、台湾の方が内地(日本)より早い。日本ででき
なかったことを台湾で、と考えていたのではないでしょうか」。日本時代の台湾の唱歌に
詳しい奈良教育大准教授の劉麟玉(44)=音楽教育=はこう話す。

 日本が最初に統治した台湾で伊沢が採った教育方針は「混和主義」というべきやり方で
あった。これは、「我(日本)と彼(台湾)と混合融和して、知らず知らずの間に同一国
に化していく」政策である。伊沢によれば、それが可能になる条件は、統治国と被統治国
とが民族的に近いこと、言語に共通性があること、知徳に大きな差がないことであった。

 「伊沢の台湾人に関する観察には偏見や先入観もなく、率直で公平である。(略)台湾
人は日本人に比較して、素質や能力、知徳の量についても劣っているとは思えない。ただ
日本が維新以来近代化を進めてきたのに反して、台湾は日本の維新前のような状態にある
に過ぎない。台湾人の気性も日本人に似通っている。日本で行っているような教育が実施
できない訳はない…」(篠原正巳著『芝山巌事件の真相』)

 混和主義の下で、伊沢がまず取り組んだのが国語(日本語)教育である。同時に、日本
人への台湾語学習にも力を入れた。それこそが「融合」のために必要だったからであろう。

 1895年6月18日。つまり「始政記念日」の翌日から伊沢率いる学務部は早速、始動してい
る。そして、台北郊外の芝山巌(しざんがん)に、台湾人子弟を対象とした日本語学習の
ための学堂を開設、そこはやがて、国語伝習所、公学校へと発展していく。

 だが、当時の台湾は植民地支配に対するまだ「抗日」の機運が強く、とりわけ、芝山巌
周辺は「土匪(どひ)」が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する危険な土地であった。

 果たして翌1896年元旦、伊沢が一時帰国している間に、日本人学務部員6人が土匪らに
よって惨殺されるというショッキングな事件が発生した。いわゆる「芝山巌事件」である。
事件は後に台湾独自の唱歌『六士(氏)先生』に歌われた。

 そのとき遭難したひとりに中島長吉がいた。東京府立師範学校を出て台湾総督府の学務
部員となった中島は音楽に造詣が深く、事件のわずか10日前、伊沢に宛てた手紙で、台湾
における音楽教育導入の重要性を訴えている。中島は音楽教育の効用を指摘し、日本に一
時帰国した伊沢に対し、楽器を持ち帰ることまで依頼していた。

 その手紙が伊沢の心を動かす。奈良教育大の劉は、「伊沢は学務部長として、台湾の教
育全体を決める立場にいたから当初は『唱歌教育よりも優先すべきことがある』と考えて
いました。(衝撃的な事件の犠牲になった)中島の進言が、唱歌教育を進める伊沢の背中
を押すことになったのでしょう」

◆日本語習得のツール

 芝山巌事件が起きた1896(明治29)年9月に公布された台湾総督府国語学校規則によって、
唱歌は国語学校の付属学校(小学校)の習得科目とされた。2年後の98年には、公学校が各
地に設置され、唱歌はここでも「必須科目」となった。すでに述べたように、これは日本
の小学校(1907=明治40年)よりも早い。

 伊沢は1897年5月、一時帰国中に行った講演で誇らしげに報告している。「唱歌というも
のは、非常に台湾の学生は好みます。しかも上手だ。概して言ってみれば、内地の学生よ
りも台湾の学生の方がはるかに唱歌は上手である」

 ただし当時、教えられたのは内地で使われていた儀式のためや、生活指導のための唱歌
が中心であり、まだ自然や動植物、名勝などを盛り込んだ台湾独自の唱歌は作られていない。

 後年、日本においても伊沢の唱歌教育は、西洋音楽への偏重や「徳育」を重視するあま
り、芸術性が軽んじられたなどとして批判を浴びたが、実際、台湾時代でも子供たちを「楽
しませるために」独自の唱歌をつくるという発想はなかった。

 むしろ、伊沢は唱歌を、同化や日本語を効果的に習得するツール(道具)として利用し、
国語教材とのコラボレーションが盛んに行われた。これは植民地教育である以上、仕方が
ないことであろう。

 一方、『始政記念日』や『六士(氏)先生』は、ともに1915年発行の「公学校唱歌集」
に収録され、その後も台湾でずっと歌い継がれた。

 台湾協会理事長の斎藤毅(73)は終戦前年の1944(昭和19)年に台北師範学校付属国民
学校(小学校)に入学し、2年生まで通った。「すでに戦争が激しくなっていたころで、台
湾独自の唱歌の多くは歌われなくなっていたようです。ただし、始政記念日や六士(氏)先
生のことはよく知っていますよ」

 それは、2つの曲が日本時代の教育のシンボルだったからに違いない。当時から『始政記
念日』を屈辱的な思いで歌った台湾人児童がいなかった、とは言わないが、多くの子供たち
は伊沢らがもたらした近代教育によって育てられたのである。

 伊沢は、1897年、今度は台湾総督府の上司とトラブルを起こし、渡台からわずか2年で台
湾を去ってしまう。

 だが、台湾の教育、とりわけ唱歌を作る伊沢の情熱は冷めることがなかった。台湾を去
った後も、東京師範学校や東京音楽学校時代の教え子らを次々と台湾へ送り込み、影響力
を保持し続けた。

 やがて、伊沢が蒔(ま)いた「混和主義」のタネが花を咲かせ、彼らによって、台湾の
独自の唱歌が生み出されてゆくのである。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

【プロフィル】伊沢修二
いざわ・しゅうじ 幕末の1851(嘉永4)年、信州・高遠藩士の家に生まれる。藩から派遣
されて大学南校(現東京大)に学び、明治新政府の官吏となる。米留学を経て、東京師範
学校校長、音楽取調掛長を歴任。1895(明治28)年渡台し、台湾総督府学務部長に就任、
近代教育導入に取り組む。貴族院議員も務めた。1917(大正6)年、67歳で死去。
                    ◇
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