文化部編集委員の喜多由浩(きた・よしひろ)記者。
これまで「台湾編」は6回にわたって連載されてきたが、去る5月15日に掲載された「公
募で作られた独自の唱歌」がその最後のようだ。本日(5月22日)掲載の第8回は「巨匠が
名を連ねた満州の唱歌」で、満州に舞台を移している。
台湾編の最後「公募で作られた独自の唱歌」をまだ掲載していなかったので、下記にご
紹介したい。
それにしても、唱歌を通して日本統治時代の台湾や満州、朝鮮の当時を見てゆくという
視点は画期的だ。戦後も60有余年を経たというのに、歴史教科書やNHKが2009年4月に放
映したNHKスペシャル「シリーズ・JAPANデビュー アジアの“一等国”」では、
日本は台湾を「侵略」して住民を「弾圧」したとするような歪んだ歴史観がまかり通って
いる。
その点で、この「歴史に消えた唱歌」はバランスのとれた公平な記述と言える。現地の
教師たちがいかに熱心に教育に取り組んでいたかを明らかにし、それを習った、今は80歳
を超える当時の子供たちの生き生きとした思い出(証言)を伝えている。いったいNHK
はどこに「侵略の爪あと」が残っていると言うのだろう。今さらながらに、歪んだ思考と
薄汚れた手つきで歴史に迫ろうという姿勢には吐き気さえ覚える。
今後、この連載で台湾に関する記述が登場したらまたご紹介したい。
歴史に消えた唱歌(7)公募で作られた独自の唱歌
文化部編集委員 喜多 由浩
【産経新聞:2011年5月15日】
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110515/art11051508230002-n1.htm
日本統治時代、台北市にあった建成小学校の同窓会が発行した『がじゅまるの追憶』に、
1931(昭和6)年当時の同市内の学校一覧が載っている。
最も古い小学校は1897(明治30)年創設とあるから、日本の統治が始まったわずか2年
後のことだ。以来、着実に数を増やして34年後の1931年には台北だけで小学校(主に日本
人児童)・公学校(台湾人児童)合わせて19校、児童数は約2万5千人に達している。
上級学校は、中学校、高等女学校、高等学校、商業、工業学校、台北帝国大学、医学専
門学校、師範学校などのほか、私立の学校もあった。わずか30年あまりで日本はこれだけ
の学校をつくり、近代教育を導入したのである。日本の台湾統治は着実に根を下ろしてい
た。
■全島から応募が殺到
そのころ、台湾総督府による第2期「公学校唱歌」集(1934〜35年)作成の動きが活発
になっていた。最初の「公学校唱歌集」(1915年、全46曲)から約20年。この唱歌集だけ
では曲数が足りない上、教育現場からは依然、台湾の子供たちが楽しく歌えるような、自
然や風俗を織り込んだ独自の唱歌を求める声が届いていた。
そこで総督府や台北帝大の教授、師範学校や現場の教師らによって編集方針が検討され
た結果、新たにつくる台湾独自の唱歌の詞と曲(の一部)を「一般から公募」するという、
内地(日本)でもなかったやり方が決定されたのである。
公募の理由は、これまで台湾独自の唱歌を作った音楽教師らの作品ばかりでは、「同じ
傾向になってしまう」からだ。採用作品には、賞金が出されることになり、全島中から応
募が殺到した。そして、唱歌集全105曲のうち『だいしゃ』『カアレン』『牛車』など19曲
が公募によって作られたのである。
採用作の作曲者の名は伏せられたが、作詞者は公表された。奈良教育大准教授の劉麟玉(44)
=音楽教育=によれば、「作詞者の多くは台湾の公学校などの日本人教師でした。作曲は
内地の作曲家に依頼したようですが、一部には著名な巨匠の作品も含まれていたようです
ね」。ただし、公表された作詞者のうち、台湾人は現地の鳥を題材にして『カアレン』を
書いた江尚文(新竹女子公学校教員)1人だけ。これは台湾人の教師自体が少なかったこ
とと無関係ではないだろう。
この唱歌集では、公募以外で作られた曲も含めて、全1055曲のうち「台湾独自の唱歌」
が半数近い40曲を占めた(表参照。劉麟玉「植民地下の台湾における学校唱歌教育の成立
と展開」から)。『カアレン』『スヰギウ』『ペタコ』『胡蝶蘭(こちょうらん)』『す
ゐれん』など、動植物を歌ったもの。『新高山(にいたかやま)』『赤嵌城(せきがんじ
ょう)』などの名勝・旧跡、『だいしゃ』『おまつり日』などの風俗、歴史上の人物『鄭
成功』もテーマになった。
このうちの『新高山』は内地で1929年に発行された「検定小学唱歌」3年用に収録され
ている納所(のうしょ)弁次郎作曲の歌とは別の台湾独自の曲(詞は同じ)である。『ジ
ャンケン』という題名の曲にバナナやオンライ(パイナップル)が出てきたり、『ユフダ
チヤンダ』の歌にも、マンゴーやビンロウ(ヤシ科の植物)が盛り込まれるなど、工夫も
こらされた。
こうした“地元密着型”の曲がわずか4曲しかなかった最初の唱歌集(1915年)に比べ
て、飛躍的な増加である。ここにきて、ようやく現場の教師が待ちこがれた唱歌集が完成
したということになろう。
■台湾少年のテーマソング
ところで、公学校と小学校では使う唱歌集が違っていた。公学校は、台湾独自の唱歌が
多数盛り込まれた「公学校唱歌」集。小学校は基本的に内地(日本)と同じ唱歌集を使う。
当時なら、『春の小川』や『牧場の朝』などが収録された「新訂尋常小学唱歌」(19321=
昭和7年)である。
ただ、このころになると、台湾で生まれた“内地知らず”の日本人児童が多数を占めて
いたから、彼らにとっても内地の唱歌は「見たことも聞いたこともない歌詞」であること
に変わりはない。だからこそ教師は、公学校唱歌集や民間の唱歌集を使ったり、ラジオで
流された『ペタコ』(雨情・晋平版)や『ガジュマルさん』などの童謡を授業で教えたの
である。
台湾生まれで台北の小学校に通った徳丸薩郎(さつろう)(86)はいう。「日本の唱歌
を歌っても、(台湾生まれの)僕たちにはイメージがわかない。たとえば、台湾にはヤシ
の葉ばかりで、桜の花なんかほとんどみたことがないでしょう。だから、台湾、内地にこ
だわらず、僕たちは好きな歌を自由に歌っていましたよ」
徳丸が当時、よく歌っていた曲の中には『おまつり日』や『スヰギウ』など、第2期の
「公学校唱歌」集に収録された台湾独自の唱歌も含まれている。特に『おまつり日』は多
くの日本人の記憶に残っている思い出の唱歌だ。日本時代に台北にあった台湾神社のお祭
りを歌ったものだが、例えば台南の子供たちは「台南神社の」と歌詞を替えて歌ったとい
う。
同じころ(1935=昭和10年)、台北で、始政40周年記念台湾博覧会が開催されている。
北原白秋作詞、山田耕筰作曲の『台湾少年行進曲』は、博覧会に合わせて作られた歌だ。
歌詞には、木瓜(パパイヤ)、水牛、台湾少年などの言葉が盛り込まれ、台湾生まれの少
年たちのアイデンティティーをくすぐるテーマソングのような内容になっている。
当時、台湾の太平山小学校に通っていた、喜久四郎(きくしろう)(86)は、「学校の
授業で習った私の愛唱歌のひとつ。当時、レコードにもなったと記憶しています。日本人
だけでなく台湾人の子供たちもこの歌をよく歌っていましたよ」。
始政40年を記念して『台北市民歌』も作られた。こちらは1915年の最初の「公学校唱歌
集」に関わった一條愼三郎の作である。日本の台湾統治はまさに、円熟期を迎えていた。
だが、中国大陸や内地、遠いヨーロッパでもキナ臭い動きが続いていた。やがて台湾の
唱歌をめぐる状況も大きな変化を余儀なくされることになる。=敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
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