事にするとは夢にも思わなかった。それも、産経新聞なら「産経抄」、朝日新聞なら「天声人語」
にあたる「余禄」で取り上げた。昨日、5月11日の朝刊だ。
この「余禄」を執筆した記者はわざわざ現地に赴いて、建立の様子や経緯について記し、台湾出
身戦歿者のご遺族の補償裁判や弔慰金支給にも言及、5月28日に行われる今年の慰霊祭にまで紹介
する周到さだ。
瑕疵があるとすれば、慰霊碑・慰霊塔が建てられている笠松展望園が「日月潭(にちげつたん)
に似ていることから選ばれたという」と書いていることか。日月潭は正しくは「じつげつたん」だ
が、現在では慣用読みの「にちげつたん」が定着しているので瑕疵とも言えない。
余禄子は「戦後70年。語り継ぐべきことは多い」と締めくくる。「語り継ぐべきこと」に台湾出
身戦歿者への慰霊を取り上げていただいたことに対し素直に感謝したい。また、この慰霊碑・慰霊
塔を建立することで日台の絆を紡いでいただいた故越山康弁護士を代表とする台湾出身戦歿者慰霊
祭奉仕会の皆さまに改めて感謝申し上げたい。
余録:大型連休中、新緑の東京・奥多摩を歩いた…
【毎日新聞:2015年05月11日 東京朝刊】
大型連休中、新緑の東京・奥多摩を歩いた。奥多摩湖にかかる橋のたもとから、急な林道を15
分ほど上り、台湾出身戦没者の慰霊碑にたどり着いた。慰霊碑から湖を見下ろすと、生い茂った杉
林の間からわずかに湖面が見える▲「あなた方がかつてわが国の戦争によって尊いお命をうしなわ
れたことを深く心にきざみ永久に語り伝えます」。40年前の1975年8月、日本の民間有志が建立し
た大理石の碑だ。隣に設置された慰霊塔はかつて「高砂(たかさご)族」と呼ばれた台湾の先住民
が持つ蕃刀(ばんとう)を模したものだ▲先の大戦では20万以上の台湾人が軍人、軍属として徴用
され、約3万人が死亡したが、戦後、国籍を失ったため、補償の対象にならなかった。74年12月、
インドネシアのジャングルに30年近くも潜伏していた先住民出身の中村輝夫(なかむらてるお)
(民族名・スニヨン)さんが発見され、台湾出身元日本兵の存在が改めてクローズアップされた▲
慰霊碑建立の中心だった弁護士の越山康(こしやまやすし)さん(故人)は初めて1票の格差訴訟
を起こしたことで知られる。建立当時の経緯ははっきりしないが、関係者は「台湾人が平等に扱わ
れていないことが許せなかったのではないか」と話す▲77年には台湾人元日本兵の戦傷者や遺族が
補償を求める裁判を起こしたが、敗訴した。80年代になって議員立法で弔慰金支給が決まり、約3
万人の台湾人遺族らに1人当たり200万円が支払われたが、日本人との格差は残った▲湖を望む奥多
摩の地は台湾の景勝地、日月潭(にちげつたん)に似ていることから選ばれたという。今月28日
には現地で法要が営まれる。戦後70年。語り継ぐべきことは多い。