李登輝前台湾総統は先日、三回目の来日を果たされ、日本各地をまわった。
第一回後藤新平賞の授賞記念講演には筆者も招待されたので拝聴に伺った。たまたま
隣席が竹村健一氏、ほかに櫻井よしこ、岡崎久彦、日下公人、大宅映子氏ら錚々たる日
本の知識人が李氏の講話を拝聴に来ていた。
李登輝氏は「後藤の功績は無私の精神で台湾復興につくし、教育にとくに力を入れた。
明治期の日本人がどうしてあれほど熱情的にほかの国の建設に汗を流したのか。明治天
皇の御叡慮に加えて新しい版図への日本全体の熱情、その”肯定的思考”にあったので
はないか」と台湾近代化への貢献を述べながらも、戦後、元気を喪ない、武士道精神を
曖昧にした日本人の欠陥をズバリと突かれた。
しかしなぜ、かくも日本人の多くが李登輝氏に戦後日本が失ったカリスマ的な道徳指
導者の疑似像を見るのだろう?
これは一種精神的代替作用ではないのか。
李登輝夫妻はそれから芭蕉「奥の細道」の旅をつづけ、即席の俳句を披露されたり、
松島、山寺、中尊寺、日光などを見学された。
日本的な情感に溢れた旅先には必ず日の丸と台湾の緑の旗をふって歓迎する民衆が待
ちかまえていた。
足跡をなぞってみると奥の細道の沿道には後藤新平、新渡戸稲造の記念館がある。秋
田の国際教養大学(中嶋嶺雄学長)ではアイデンティテイの恢復を力説される講演を英
語で行った。都内でも二回、講演されたが、オークラの会場には立錐の余地がないほど
の聴衆が参集し、李氏の世界情勢分析を聞いた。
そうだ。そうやって日本人に或るメッセージを李登輝氏が発信されたのだ、と筆者が
気が付いたのは李氏が東京へもどって靖国神社へ参拝するという“離れ業”を目撃した
ときである。
記者団に対して、「わたしの兄(李登欽)は昭和二十年にフィリピンで戦死したが、
父は兄の死を信じていなかった。父は十年前に96歳で天寿をまっとうしたが最後まで兄
が戦死したのを信ぜず、わが家には遺髪も位牌も墓もなかった。父がそういう立場であ
る以上、わたしは兄に対してなにも出来なかった。だが靖国神社には合祀していただい
ており、わたしは人間としてやっと冥福を祈ることが出来た。私自身はクリスチャンで
あり、今度の参拝はわが家の家庭の事情によるもの。政治的歴史的な解釈はしないで頂
きたい」と述べられた。
中国の反応ばかりを懸念する日本政府は、同じ頃に来日した民主活動家の魏京生氏の
入国を認めないという失態を演じた(三日後に許可)。
それほど北京に阿る日本の主流派を刺激しないように、周到に、しかし李氏は行動に
託してメッセージを残したのだ。
日本が迎える多難な近未来。教育現場の荒廃、年金資金の枯渇、少子化、北朝鮮の核、
中国の軍事力、ロシアの横暴……。
ところが日本の困難さ以上に深刻なのが台湾である。
アイデンティテイの統合は難しく、中国のミサイルは台湾を照準にして九百基。戦闘
機など軍備を日々更新させている。
そうした危険な情況にありながら日本にも警告を投げかけるという精神的余裕は、後
藤新平が台湾に遺した「肯定的思考」という人生への姿勢に支えられている。
(この文章は『北國新聞』、2007年6月18日付け、一面コラム「北風抄」からの再録です)。
●文中「秋田の国際教養大学(中嶋嶺雄学長)ではアイデンティテイの恢復を力説され
る講演を英語で行った」とありますが、これは日本語で行いました。(編集部)