【黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」:2017年6月21日】
今年、日本の高校生の修学旅行先ランキングで上位に入ったのは台湾でした。不動の人気を誇る
アメリカと肩を並べての人気ぶりに、私を含めた台湾関係者たちは喜びを隠せませんでした。
では台湾のどこが高校生に人気なのか。人気要因は様々ありますが、若い子にとってはやはり台
湾のB級グルメが魅力的なのではないでしょうか。夕方から開かれる夜市にひしめく屋台料理です。
日本には夜市という文化がありませんが、アジア諸国では日常的な風景です。フライドチキンや
海鮮料理などのがっつり系から、タピオカ飲料やかき氷などのデザート系まで様々な屋台が、狭い
路地にひしめきあっています。
もちろん衣類やシューズなどのファッション系も揃っています。週末ともなれば大勢の人が集ま
るため、狭い路地は常に大渋滞しており、思うように歩けませんが、食べ物片手に左右に並ぶ屋台
を眺めながら人波に身をまかせて歩くのも、また夜市の楽しさなのです。
そんな屋台料理の中には、日本統治時代の名残を感じさせるものがいくつかあります。まずは
「甜不辣」、つまり「てんぷら」です。台湾で言う「てんぷら」は、「さつまあげなどを煮たも
の」で、特性のミソダレをつけたりもしますが、味が染み込んでいてとてもおいしいさつま揚げで
す。今でも九州地方では、さつまあげのことを「てんぷら」と言いますが、日本統治時代になんら
かの理由で九州の方言が台湾に残ったのでしょう。
台湾では「おにぎり」や「寿司」も普通に売っていますが、これらに使われている米も日本統治
時代と深い関係があります。日本統治時代、台湾総督府の技師及び大学教授として招聘された磯永
吉という人物は、当時、インディカ米が主流だった台湾で、日本米と同様の米を作ろうと研究を重
ねました。
そして、ついに品種改良に成功しました。「蓬莱米」と命名されたこの米は、台湾の気候と風土
に合った育成方法で栽培され、その後の米の安定供給に大きく貢献したのです。磯永吉は、戦後も
台湾に残り、台湾の農作物の改良と安定供給に尽力し続けました。今では台湾の米の産地といえば
台東にある池上が有名です。
台湾で刺し身を常食するようになったのも日本統治時代以後ですが、その際に必要なのがワサビ
です。台湾でワサビの栽培が始まったのは日本統治時代からです。阿里山の気候を利用して、宮城
県から持ち込まれたワサビから栽培が始まりました。
栽培の担い手となったのは原住民です。戦中、戦後を通してずっと続けられてきた阿里山ワサビ
の栽培ですが、もともと国有林である場所での栽培であるということと、山林の荒廃を招くという
理由で、近年は栽培を禁止され、原住民は退去を迫られている状況です。
紹興酒といえば中国ですが、台湾産の紹興酒も人気です。台湾屈指の紹興酒の名産地は南投県に
ある埔里という町です。日本統治時代、埔里の水がおいしいことに目をつけた民間酒造業者が1917
年、ここに酒造工場を建設したのです。そして日本時代は、天皇陛下御用達の日本酒を製造した
り、国宴で使用された「介寿紹興酒」などを製造していました。
戦後も、紹興酒工場として生き残り、今では観光客向けの見学コースや紹興酒アイスなどを販売
する売店が揃う観光地として有名です。
台湾を修学旅行で訪れる高校生も、グルメという分かりやすい視点で日台関係を知っていけば、
その興味は戦前、戦中、戦後の日台間に起こった数々のドラマにも必然的に広がっていき、日台の
絆はもとより、戦争という言葉が抱える重さやそれにまつわる様々な事象にまで目を向けることが
できるでしょう。
若者たちにそうしたことを知ってもらうことは、戦後を生き抜いてきた我々の使命でもあります。
訪台する観光客のトップも日本人です。一時、中国人がトップになったことがありましたが、
「一つの中国」を認めない蔡政権への見せしめとして、中国政府は台湾への観光を規制したため、
再び日本人が訪台観光客のトップとなりました。
日本が台湾に及ぼす影響は、政治、文化、経済とあらゆる面で大きく、訪台した日本の高校生は
きっと楽しいことでしょう。特に夜市観光で見る屋台グルメや、デタラメな日本風の日本語が書か
れた看板、メニュー、衣類などは楽しいはずです。相互に影響を与えているのか、台湾の大学生が
選ぶ第二外国語は日本語が今でも根強い人気を得ています。