70周年歓迎大会」を開催し、約300人の元台湾少年工たちが来日した。
台湾で戒厳令が解除された直後の1988年に設立された台湾高座会(李雪峰会長)は、こ
の台湾少年工8,400人を束ねる内政部認可の社団法人で、台湾各地に支部(分会)を持って
いる。以来、四半世紀を経た。11月20日、彰化分会が「最後の同窓会」を開いて活動に終
止符を打ったという。
台湾少年工は招集された1943(昭和18)当時、最年少者は12歳だったという。最年少者
でもすでに82歳となる。会長の李雪峰氏は大正15年、1926年の生まれだからすでに87歳と
なる。台湾高座会のメンバーも250人ほどにまで減っているという。「最後の同窓会」が開
かれるのも致し方ない。
しかし、今春、その李雪峰会長に対して日本政府は「日本・台湾間の相互交流・相互理
解の促進に寄与」したとして旭日小綬章を授け、その労苦に報いている。
石川・高座日台交流の会会長らはきちんと終止符を打つため、5年後になんとか台湾高座
会の留日75周年を開けないかと模索中だ。
日本で戦闘機造りに従事した台湾少年工、彰化で最後の同窓会
【中央通信社:2013年11月21日】
(台北 21日 中央社)日本統治時代に神奈川県高座など日本各地の海軍工場で少年工と
して働いていた「台湾高座会」彰化分会のメンバーが集まって20日、“最後の同窓会”を
開き、同会の活動に終止符が打たれることになった。自由時報が21日付で伝えている。
太平洋戦争末期の1943(昭和18)年、8000人余りの台湾の少年が日本の“内地”に渡
り、各地で戦闘機の生産に従事した。今年はこの台湾少年工の派遣からちょうど70年目に
あたるが、これまで日本でも交流会や記念大会などを開いてきた元少年工の同窓組織、
「台湾高座会」はメンバーの高齢化が進んでいるが、20日、台湾中部・彰化県出身の23人
が集まり“最後の同窓会”が開かれた。
戦争末期に海軍工場で少年工として戦闘機「雷電」を造っていた蔡天開さんは当時まだ
14歳。台湾の家族のもとを離れたが、日本の冬は思いもよらぬ厳しい寒さだった。少年ら
はいつもひもじい思いをし、また空襲に遭って危うく死にそうになったこともあるという。
1945(昭和20)年、終戦を迎え、台湾の少年工たちは6艘の船に分乗して台湾に戻った。
戦後の台湾でも互いに連絡を取り合い、戒厳令解除の翌年1988年に「台湾高座会」を結成
した。当時の会員数は3000人。しかし、その後会員の高齢化が進んで93年には1400人、現
在は250人にまで減った。会設立当時1000人以上いた彰化県の出身者も2001年には150人余
り、今年は僅か33人となった。
今回で最後となった高座会彰化分会の“同窓会”では、メンバーらが台湾語や流暢な日
本語で互いに声をかけ合い別れを告げた。