李登輝『新・台湾の主張』(PHP新書)
デフレは日本経済を萎縮させたばかりではない。日本の精神をデフレ状態として国家の発展を停滞
させたのだ。
李登輝元台湾総統は司馬遼太郎氏との対談で「台湾人に生まれた悲哀」と言った。じつに象徴的
な表現である。
司馬氏が残した膨大な作品群のなかで、この李登輝総統との対談を含めた『台湾紀行』は、駄作
の多い氏のなかでは傑作中の傑作である。
さて李登輝元総統は嘗て『台湾の主張』を出版され、日本での翻訳本もベストセラーとなった。
その後、『「武士道」解題』など多くを饒舌に語られ、日本に講演旅行にも来られて、いずこも
満員。行く先々で歓迎の人並みが絶えなかった。戦後うしなった指導者の像を多くに日本人が李登
輝総統に仮託したからだ。
昨秋来日の折、評者も久しぶりにお目にかかったが、90歳をこえたことが信じられないほど矍鑠
として、主賓席のテーブルは曾野綾子氏、小田村四郎氏、そして渡邊利夫氏だった。それぞれ総統
が特別の思いを抱いている人々で、その由来に関しては説明する必要はないだろうが、本書でちゃ
んと述べられている。
こんかいの著作で、李登輝総統はいったい何を主張されたいのだろうか、新書のかたちで簡便
に、簡潔に訴える方法をとられたのは、何かの意味があるに違いない。
通読して涙が止まらなかった。
そしてこれまで直接語られなかった、あるいは日本人の多くが知らなかった多くの秘話がさりげ
なく挿入されている。
評者にとっては、「えっ。そうだったのか」と過去の歴史のミステリアスな部分がさっと解けて
いくような気分にもなったのである。
たとえば蒋経国は、なにゆえに突如、本省人の李登輝を副総統に任命したのか。最後の決断の心
理的な、あるいは社会的背景との関連がいまひとつ分からなかった。蒋経国は当局に米国から帰国
したばかりの李登輝氏の身辺の精密な調査を命じていた。
そして1972年に行政院長(首相)になると、李登輝を国務大臣に抜擢し、農業改革の先頭を担わ
せる。ついで75年に蒋介石が急死すると、憲法の手続きを経て総統になる蒋経国は、いきなり李登
輝を台北市長に任命したのだ。
さらに李登輝の自宅へ3ヶ月ほど毎日のように通い、留守のときは応接間に上がり込んで、帰宅
を待ったというのだ。つまり蒋経国はじっと李登輝を観察していたのである。権力欲も立身出世欲
もない、稀な指導者像をそこに見いだした。
李登輝総統はかく回想される。
「私の日本的なところを非常に高くかっていたように思える。仕事に対しては責任をもって誠実に
やってきたし、嘘もつかない。出世したいという欲もないからおべっかも使わない。こうしたこと
も含めて蒋経国は私のことを評価していたのだと思っている」(80p)。
1884年、寝耳に水。蒋経国は李登輝を副総統に任命する。
そして3年後の憲法記念式典で蒋経国は「蒋家の血を引く総統は自分限りだ」と宣言するにいた
る。
88年1月、蒋介石の子、蒋経国は急死した。中華民国憲法の規定に従って李登輝はただちに台湾
総統に就任した。
それからが多難な日々、とりわけ国民党残党の守旧派や軍との激しい闘いが始まった。頑強な中
華思想の持ち主達をいかにして説得し、96年に民主選挙実現までを導いたか、とくに●柏村・参謀
総長を国防部長から行政院長へとポストを移行させながら、かれの権力基盤をそいで行ったかの秘
話がさりげなく語られているのである。
ほかにも取り上げたい箇所がいくつもあるが、現状認識という文脈でとくに重要なのは李登輝が
いまの中国共産党指導部をいかに位置づけしているかという点であろう。
総統はこう分析する。
「習近平主席は領土的な野心を隠そうとせず、周辺諸国と至る所で紛争を起こしている。近年の中
国は、自国民の不満を逸らすため周辺国に覇権的な干渉をくりかえしているが、こうした動きは今
後も続くのではないかと、国際社会は危惧している。(中略) 中国の軍事的膨張と実力行使によ
り、アメリカは大きな負担を強いられているが、中国側はアメリカ単独ではアジアの安定を維持す
る力がないことを見抜いている」
それゆえに李登輝は安倍政権の集団的自衛権の行使容認を高く評価し、言外に日本人の武士道精
神の復活を促しているのである。
日本は経済的デフレに長く悩まされ、「失われた二十年」を過ごすことになったが、ろくな指導
者がいなかったことも手伝い、どん底まで堕落した。
転機がきた。
最後にこう言われる。
「デフレはたんに経済的な問題ではなく、日本の政治指導力の問題だ。日本は米国依存と中国への
精神的隷属から抜けださなければ、いまの苦境を脱することが出来ない。国際社会における日本の
経済的自立、精神的な自立こそがデフレ脱却の大きな鍵だ」(175p)。
この箴言こそは李登輝総統の真骨頂である。
●=都の左が赤(カク)