台湾美術の「恩人」石川欽一郎の絵が90年ぶりに「奇跡の発見」 野嶋 剛(ジャーナリスト)

【nippon.comコラム:2017年12月24日】https://www.nippon.com/ja/simpleview/?post_id=51465

◆台湾で開催中の「近代日本洋画展」で石川欽一郎の『河畔』が90年ぶりに登場

 優れた芸術品には生命が宿る、と言われる。このほど台湾で起きた日本人画家・石川欽一郎の『河畔』の「90年ぶり」という奇跡的な発見は、改めて「芸術品に宿る生命」の存在を信じさせるような出来事だった。台湾を深く愛し、台湾で多くの画家を育てた石川の遺作が、いま台北で開催中の「近代日本洋画大展」で、長い時空を超えて、われわれの眼前によみがえった。

 石川は1871年静岡県出身の西洋画家で、英国の水彩画を独学で学んだ。2度にわたって台湾で絵画を教え、台湾に西洋画を初めて紹介し、多くの弟子を育成したことで台湾美術への恩人とされている。

 蔡家丘「日本水彩畫與台灣日治時期水彩畫的興盛」や、nippon.comのコラムニスト、黒羽夏彦「李澤藩と石川欽一郎」によると、石川は旧幕臣の家に生まれ、もともと美術に関心はあったが、家計が苦しく、逓信省電信学校を経て大蔵省印刷局に入った。独学で水彩画を学び、英語が得意だったので、陸軍参謀本部の通訳官となって1907年に台湾へ赴任した。

 石川は1907〜16年の間に兼務の形で台北中学校や国語学校で美術を教えた。さらに1924〜32年には、台北師範学校(国語学校が前身、後の台北教育大学)で美術教師を務め、計17年間も台湾で過ごすことになる。

 この間に育てた弟子からは、倪蒋懐、黄土水、陳澄波、陳英聲、郭柏川、李梅樹、李澤藩、李石樵、藍蔭鼎など、後に台湾美術界で地位を築いた人材となった者は枚挙にいとまがない。石川は日本人と分け隔てなく台湾人と接したので、台湾人の生徒からは特に慕われた。教官に義務付けられていた官服は着用せず、背広にちょうネクタイというイギリス紳士風の姿も人気のあった理由らしい。

 石川の教えを受けた若者たちの中からは、日本に渡り、東京美術学校(現代の東京芸術大学)などでさらに高いレベルの教育を受け、日本の帝展などに入選して、一流の画家への道を登った者も少なくない。一方で、台湾人の教員養成を目的にした師範学校であったため、多くの台湾人の教え子が教師となり、石川から教わった西洋画をさらに台湾社会の末端にまで伝えていった。

◆戦後、絵画好きの医師が『河畔』を所蔵

 石川は台湾で最初の大規模な美術展で、1927年に最初に開かれた「台湾美術展覧会(台展)」の主要な担い手の一人として準備に奔走した。その際、自らも油絵で作品を出した。それが『河畔』である。水彩画を得意とした石川には珍しい油絵で、石川の作品で現存する油絵は極めて少ない。

 淡水河の夕暮れを描いた石川の『河畔』が美術史家の間でよく知られているのは、台展のカタログに載っていることに加えて、当時の台湾の日本語新聞「台湾日日新報」が展覧会前に石川を取材し、キャンパスに立てかけられている完成した『河畔』と一緒に映った石川の姿を報じたからである。

 『河畔』はその後、石川の帰国の際に日本に持ち帰っておらず、友人などに贈られたとみられるが、そのまま行方不明となってしまった。

 誰もが諦めかけていた中で、台北教育大学の美術館で現在行われている「近代日本近代洋画大展」の準備に奔走していた元台北故宮院長で美術館館長の林曼麗の元に1本の連絡が入った。旧知の画廊の経営者からだった。

「石川の『河畔』が見つかりましたよ」

 信じられないような知らせに、早速、林曼麗は、台北教育大学教授で『水彩.紫瀾.石川欽一郎』の著書でもある顏娟英を伴って、この画廊経営者に会いに行った。鑑定の結果は、間違いなく消えた『河畔』そのものだった。

 その後、判明した『河畔』の来歴は、こういうものだ。

 「河畔」は、日本敗戦と国民政府の台湾接収という激動期の台湾で、ガラクタ市に流れて、二束三文で売られていた。そのとき、台北在住の周という若い医師が、たまたま「河畔」を見つけて買い取った。絵が好きだった周医師は、石川というサインがあったので、石川の作品であることを分かって買ったようだ。購入後は、自らが経営する医院の壁に掛けて、仕事の合間に眺めては楽しんでいたという。周医師は、家族に対して「これは有名な日本人の画家の作品だ」と話していたという。

 周医師が亡くなったのが2005年。その後、医院は閉められていたが、周の娘がたまたま書店で顔教授の『水彩.紫瀾.石川欽一郎』を手に取ったところ、例の台湾日日新報の記事のコピーが載ったページが目に留まった。

 周の娘は、自分の家にある絵とよく似ていることから、知り合いの画廊に連絡を取り、林曼麗の所に知らせが届いたというわけだ。

 林曼麗にとっては、全てがあまりに「出来過ぎた偶然」であるように思えた。なぜなら、自分が先頭に立って3年前から進めてきた展覧会は「日本の近代絵画」をテーマにして、「官展」「在野」「水彩画」を3つの大きなセッションとしており、その「水彩画」パートの目玉として石川を含めた多くの明治時代の日本人画家の作品を集めようとしていたときだったからだ。

 水彩画は、世界の芸術の流れからすれば、決して洋画のように華やかなものとはいえない。しかし、日本や台湾のような島国の移ろいやすい微妙な四季の変化が豊かな風土の景色を描くには非常にフィットする画法である。

 林曼麗は感動を込めて、こう語る。

「水彩画は英国で発展したのですが、英国も島国であり、日本も台湾も島国で、島国の風景を描くことに向いています。石川とその教え子たちが残した台湾の景色を描いた水彩画は、今日に当時の台湾の様子を伝える良質な資料となっています。石川の展示を企画しているこのタイミングで、90年ぶりに作品が見つかるというのは、本当に奇跡的なことで、石川が魂を込めて描いた作品が、自ら望んでこの発見に導いてくれたとしか思えません」

 台湾の南国的にみずみずしい風景を描いた石川の水彩画は、枯淡な味わいに特徴を持つ伝統的な水墨画に馴染(なじ)んだ台湾の人々にとって新鮮だった。

◆「台湾愛」にあふれた数々の作品

 石川は、いつも教え子たちを、台湾の地方各地にスケッチに連れて行っていた。石川が感動を覚えて描こうとするのは、台湾の若者たちにとっては日常的にいつも見ているありふれた景色や建物だった。それを石川が「美しい」といって作品にしたことは、若者たちは大きな衝撃だったらしい。

 そのため、石川は、台湾において西洋美術の最初の普及者というだけでなく、台湾人に自分たちの暮らす土地の美しさへの自覚を促したとも評価されている。台湾アイデンティティーの萌芽(ほうが)がこの時期に石川によって美術界や教育界にもたらされたと見るのは、いささか飛躍し過ぎかもしれない。それでも、石川の描き出す美しい各地の水彩画は「台湾の価値」に対する外の目からの承認であり、励ましであったことは、容易に想像がつく。

 展示されている石川の水彩画をじっくり見た。よく知られた『台湾総督府』『次高山』『劍潭寺』『台灣基隆海岸』『台北松山米粉工廠』『景美』『台南後巷』など、台湾の名所や風景を、くまなく歩き、その繊細な水彩画として残している。石川の台湾への深い愛情と友情を感じないわけにはいかない。

 『河畔』は展示会場の中で、最も目立つ真ん中に飾られている。今、この作品は、周家からコレクターの手に渡っているため、この機会を逃せば、いつお目にかかれるか分からない。

 石川は、日本が台湾を失うのとほぼ同時に、この世を去った。まるで台湾に別れを告げるような死に方だった。しかし、石川が残した「台湾愛」に支えられた作品は、なお生命力を持って輝いている。そんな深い感動を与えてくれる展覧会は来年1月7日まで、国立台北教育大学北師美術館で開催されている。

 展示には、黒田清輝、藤島武二、清水登之、児島善三郎、梅原龍三郎など、日本の近代絵画の巨匠たちの作品もずらりとそろっている。日本と台湾の芸術の交流に関心がある方々には、ぜひとも足を運んでほしい。


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