金足農のユニフォームの胸のゼッケンに「KANANO」とあり、書体もよく似ていることから一瞬「KANO」と見間違えたが、その決勝進出は、ベンチ入りメンバー全員が地元出身というチーム構成の魅力に加え、農業高校としては台湾の嘉義農林による1931年(昭和6年)の第17回大会以来の83大会ぶりとなったことで、台湾でも大きく取り上げられている。
嘉義農林が甲子園大会に出場したことで、台湾では戦前から野球熱は高かった。戦後の興隆は、1968年にリトルリーグワールドシリーズで優勝して世界一となった台東県の原住民ブヌン族の子たちでつくる紅葉少年野球団から始まり、台湾少年野球の黄金時代を画した。
映画『台湾人生』や『台湾アイデンティティ』『台湾萬歳』の台湾三部作を撮った映画監督の酒井充子(さかい・あつこ)さんが台東県延平郷紅葉村に紅葉少年野球団を訪ねてレポートしているので下記にご紹介したい。
実は、酒井監督のレポートでは触れられていないが、1968年の紅葉少年野球団を支援していたのが、故蔡焜燦(さい・こんさん)先生の3歳下の実弟、蔡焜霖(さい・こんりん)先生だったことは意外と知られていない。
なお、いささか古いが「台北ナビ」が紅葉少年野球団について詳しくレポートしているので、下記に併せてご紹介したい。
◆台北ナビ:紅葉少年紀念館(台東県)【2012年7月6日】 https://www.taipeinavi.com/miru/194/
————————————————————————————-台湾少年野球の聖地紅葉村を訪ねて 酒井 充子(映画監督)【nippon.com:2018年8月27日】https://www.nippon.com/ja/column/g00568/
◆快挙から50年の紅葉村
1968年8月、世界大会で優勝した日本の少年野球チームが台湾へやって来た。そのチームとの親善試合を7−0で制し、台湾の希望となると同時に、少年野球ブームに火を付けたチームがあった。ブヌン族の紅葉少年野球団。野球少年たちが帽子を放り投げて喜んでいる台湾の500元紙幣は、少年野球が台湾に根付いている証しで、それは彼らの活躍がきっかけとなったと言える。快挙から50年、台湾少年野球の聖地・紅葉村は、先住民族エリートチームの養成地となっていた。
台湾南東部、四方を山に囲まれた台東県延平郷紅葉村は人口約500人。日本統治時代に高地から強制的に移住させられたブヌン族が暮らしてきた。現在、幼稚園児から小学6年生までの子どもはわずか52人。うち22人が野球少年だ。そのうちブヌン族は1人だけで、あとはアミ族、プユマ族、タイヤル族の子どもたち。彼らは親元を離れ、監督、コーチと共に寮で合宿生活を送りながら学校へ通い、練習に励んでいる。国の機関「原住民族(先住民族)委員会」の肝いりで2014年、寮が整備され、全国から先住民族の有望選手が集められている。
◆先住民族チームの意味とは
なぜ先住民族だけでチームを作るのか。台湾先住民族は現在、台湾の総人口2350万人のわずか2.3%、約55万人。17世紀に漢民族が台湾に流入して以降、長い間、社会の周縁に追いやられていた。16年8月1日「原住民族(先住民族)の日」に、蔡英文総統が先住民族各部族の代表を総統府に招き、過去400年にわたって先住民族が受けてきた苦難と不平等に対し謝罪したことは記憶に新しい。わたしたち日本人は、その400年に50年間の日本統治も含まれていることを忘れてはならないと思う。
1980年代後半以降になってやっと、台湾の民主化と共に先住民族固有の文化や言語を守り、人権や土地所有権の確立を目指そうという機運が高まった。紅葉少年野球団の勝利はそれよりはるか前の時代。ブヌン族の子どもたちの活躍は、台湾の野球少年だけでなく、先住民族社会に大きな勇気を与えるものだったに違いない。民主化が進んだ現在の台湾においても、先住民族の置かれた環境は依然として厳しいものが残っており、委員会はさまざまな取り組みの一環として、少年野球チームの強化を推進している。そこには、少年たちの活躍は先住民族社会の活力になるとの考えがある。
◆「ありがとう」が必要ない社会と抵抗の歴史
紅葉村から車で1時間ほどの距離にある、映画『台湾萬歳』の舞台である台東県成功鎮在住のアミ族のオヤウさん(当時69歳)夫妻を取材したときのこと。アミ語で「ありがとう」は何と言うのかを尋ねたところ、返事は「ない」だった。驚いた。文で感謝の意を表すことはできるが、「ありがとう」に相当する単語はないという。ただ、近年は中国語の影響で「謝謝」の意味で「アライ」という言葉を使うことがあるそうだ。「阿美族語辞典」(呉明義編著)で「alai」を引くと、「拿」と出てきた。日本語で「取る」という意味。相手の好意を受け取るというところから来たのだろうか。いずれにせよ、先住民族最大の人口(現在約21万人)を数えるアミ族は、「ありがとう」を言う必要がない社会を作っていた。互いに助け合い、あげたりもらったりすることが当たり前の社会。そういう社会を持つ人たちが、不本意ながらも異なる民族を受け入れ、異なる文化を許容してきたわけだが、先住民族の振る舞いこそが、今の台湾をかたちづくったのだと思う。
先住民族は17世紀以降、被支配者の立場であり続けたが、それは同時に抵抗の歴史でもあった。セデック族の「霧社事件」は大規模武力衝突事件だったこともあり日本で最も知られているが、映画『セデック・バレ』(2013年日本公開)で初めて知ったという人も多いかもしれない。アミ族に限ると、花蓮県の村を舞台にした映画『太陽の子』(15年)で、住民が清の時代の虐殺事件に言及するシーンがあり、ドキリとさせられた。日本統治時代に入ると、1908年に起こったチカソワン事件が知られているが、その3年後の11年、成功鎮(当時台東庁成廣澳)でもマラウラウ事件が起こっていた。当時の東京朝日新聞には「台東平地蕃反抗事件」とある。地元の郷土史家、王河盛さんによると、過重な労役に対する不満が暴発し、日本人警察官2人と教師1人を殺害後、約300人が成廣澳支庁を襲う構えをみせたという。日本側は部隊を送り込んでこれを制圧した。事件から9年後、大正期に新港と改称された成功鎮には新港神社があった。かつてのままの石段を上った神社跡地に建てられた「阿美族英勇事件紀念碑(記念碑)」の前に立つと、複雑な思いに駆られる。
◆言葉と名前に宿る誇り
アミ族のオヤウさんは撮影中、台湾人のプロデューサーとは台湾語、私たちとは日本語で話してくれた。自身は戦後生まれだが、父親から日本語を習ったそうだ。そのオヤウさんが地元での上映会の時、「地元だからいいでしょ」と言ってアミ語であいさつを始めた。マイクを握るオヤウさんのりりしい横顔に心が震えた。成功鎮は人口約1万5000人で、アミ族と漢民族系の人たちがほぼ半数ずつ暮らす町だ。オヤウさんのスピーチを理解できたのは会場の半分だったかもしれない。それでも、あえてアミ語で話すことを選んだオヤウさんの気持ちを思った。先住民族が自分たちの言葉を失いかけている。学校の授業で習わなければならないほどに。そんな事態に対するじくじたる思いもあっただろう。彼らから言葉を奪ってきた歴史に日本も加担していることを考えると申し訳なく思う。
オヤウさんは中国語名も持っているが、最初に名乗ったのは部族名だった。漁師の仕事仲間も近所の人もみんな「オヤウ」と呼び、彼が中国語名で呼ばれるのを聞いたことは一度もなかった。映画の紹介テロップも民族名を優先させた。初めて監督した『台湾人生』に出演してくれたパイワン族の故タリグ・プジャズヤンさん(1928年生まれ)の言葉が忘れられない。「原住民族(先住民族)がこの台湾を守ってきた。原住民族がいなければ、今の台湾はない」。そして「名前が日本人になっても、中国人になっても、自分は原住民族であることを忘れてはならない」と。タリグさんは日本統治時代に生まれ、松田正一という名を持ち、戦後は「華愛」という中国語名で国会議員を務め、先住民族の権利回復を目指し力を尽くした。
◆紅葉少年野球団50年目の挑戦
紅葉少年野球団は昨年、全国大会で準優勝したが、主力選手はみな卒業してしまった。エースで主将を務める新5年生のファッサオ(中国語名:鄭景澤)君を中心に新しいチーム作りが進んでいる。彼は、父がアミ族で母はプユマ族だ。「野球が好きだから、3年生のときに転校してきた。始めは大変だったけど、キャプテンになってとてもうれしい。夢は大リーガー」と話す。今年の夏も「紅葉杯野球大会」が台東県で開かれる。国の内外の小学生から高校生まで66チームが参加する。全国制覇を目指すファッサオ君たち新チームの初舞台だ。68年にセンターで活躍したハイソル(邱春光)さんや、彼の息子で、子どもたちが学ぶ紅葉国民小学校のイマン(邱聖光)先生をはじめ、全員顔見知りの村人たちが彼らの成長を楽しみに見守っている。先住民族代表という意識うんぬんは別として、ひたすら練習に打ち込む子どもたちのこれからの人生が実りあるものであることを願ってやまない。紅葉村が再び脚光を浴びる日は来るのか。野球少年たちの50年目の挑戦が始まっている。