台湾出身の旧日本軍少年飛行兵 高齢化で戦友会解散へ

10日に靖国参拝、会旗を奉納

【産経新聞 平成17年8月4日】

 1934(昭和9)年から終戦まで、旧日本陸軍が軍用機の操縦や整備の要員
として10代の少年を養成した「陸軍少年飛行兵」には、高い倍率の選抜を経た
100人以上の台湾人がいた。戦後、国民党政権下の台湾でも戦友会にあたる「
台湾少飛会」が関係者により組織されてきたが、メンバーの高齢化が進み、8月
15日に解散することを決めた。台湾の関係者は10日、靖国神社に昇殿参拝し
て戦友らに報告し、「元日本兵」としての戦後に終止符を打つ。(台北 河崎真
澄)

 台湾から少年飛行兵への入隊には、厳しい身体検査のほか筆記試験では高い日
本語能力も求められた。当時の台湾では「帝国大学に入るより難しい」とも評さ
れ、一九四三年以降は台湾で毎回数千人の応募に対し、終戦までに内地で操縦、
整備、通信の訓練を受けることができたのは百人あまりにとどまった。
 十八歳で岐阜陸軍航空整備学校の奈良航空教育隊で整備兵生徒となった台中出
身の蔡焜燦(さいこんさん)氏(78)は連日の整備技術の教練に加え、重い機
関砲や弾薬を肩にかついで、空襲に備えて練兵場を駆け回った日々のことを今も
鮮明に覚えている。蔡氏と奈良で苦楽を共にした張国裕氏(77)は、「当時は
人生五十年。軍人さんは半値(二十五年)だが、少年飛行兵は、さらにその八掛
け(二十年)といわれたものだ」と当時を振り返る。
 終戦の日を任地で迎え、戦後台湾に戻った元少年飛行兵のうち、蔡氏らが終戦
の翌年に同窓組織の体裁で「奈良航校同学会」を発足させた。しかし、戦後台湾
を支配した国民党政権が台湾住民を弾圧した四七年の「二・二八事件」以後、旧
日本軍関係者の団体は、表立った活動を控えざるを得ない時期が続いた。
 日本国内では、数千人規模の「少飛会」が組織され、李登輝政権下の一九九九
年六月に岡崎義範事務局長(当時)らが台湾を訪れた際、戦前の名簿をもとに台
北で二十四人の元少年飛行兵が集まった。その後、二〇〇〇年四月に「台湾少飛
会」が蔡氏を会長に、約七十人で台湾全体の組織として設立された。
 だが、日本の「少飛会」は、会員の高齢化を理由に昨年七月に組織を解散。靖
国神社への参拝など有志による一部の活動を残すだけとなった。
 やはり会員の高齢化で組織運営が困難になっていた「台湾少飛会」も、「続い
て解散を決めざるを得なかった」(邱其●(きゅうきぎょう)事務局長)という
。会長の蔡氏が十日に靖国神社に昇殿参拝し、台湾少飛会旗の奉納を申し出るこ
とにしているほか、六十回目の終戦記念日に最後の幹事会を開く。
 最後の幹事会では、活動費の余剰金約五十万円相当を、二・二八事件の真相究
明にあたる台湾の民間組織に寄付することが決まる見通しだ。
 寄付を受ける組織の主宰者、阮美姝(げん・みす)さん(78)は、この寄付
金をもとに二・二八事件の悲惨さを描いた漫画の日本語版を来年一月、日本で自
費出版する予定だ。
 阮さんは、「同じ元日本兵でも、終戦の日を境に日本人ではなくなった台湾人
が、戦後の独裁政権下で過酷な運命を背負わされた事実を、一人でも多くの日本
人に知ってもらいたい」と話している。
              ◇
《陸軍少年飛行兵》14歳から18歳までを対象に旧日本陸軍航空隊の操縦士や
整備兵、通信兵養成のため、1934年に始まった志願制度。陸軍少年航空兵と
も呼ばれた。東京や岐阜、奈良、滋賀、大分などで教練を受けた。終戦までに計
4万4863人が訓練を受けたとの記録がある。
●=森の木をすべて土



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