台湾に目覚めたころ [在日台湾同郷会長 河元 康夫]

私は一九三五年、台湾・台南市に生まれました。小学校は、一六二四年、歴史上最初に
台湾を支配したオランダ人によって建てられたプロビデンシャ城(赤嵌楼)のすぐ隣にあ
る国民学校で、四年生まで当時の教育を受けました。つまり、第二次世界大戦が一九四五
年に終結したときまで、日本軍国時代の教育を受けたわけであります。登下校時には、学
校の正門のところにある二宮金次郎の銅像に敬礼し、朝礼の時には、内地の宮城の方角に
向かって遥拝することが日課でした。

 終戦後間もなく、台湾全島で祖国復帰を祝うため「光復の歌」(六百万人同快楽―当時
台湾の人口は六百万人)をアコーディオンやハーモニカに合わせて精一杯合唱する姿が各
地の街角で見られました。やがて中国の国民党政府の軍隊もやってきましたが、目の辺り
にするその軍人達は威厳もなく、規律もない上、ぼろぼろの軍服を着、傘や布団、それに
鍋の類などを天秤棒で担いでの行進だったのです。その情景を目にした瞬間、がっかりし
たというより、今まで『少年倶楽部』や漫画本に掲載されてきた「支那敗残兵」そっくり
の姿だったのに唖然としたのでした。同時にその漫画家の描写力に感心したのを覚えてい
ます。

 陳儀・台湾省行政長官時代は腐敗政治が世にはびこり、秩序は崩壊し、やがて事態は二
二八事件、白い恐怖、赤いテロなどに発展していったことは周知のとおりです。

 昭和三十一年一月、私は日本に留学したのですが、当時の日本はまだ米が配給制度で米
穀通帳がないと米が買えない時代でした。休日、下宿にいると寒いので、よく九段下の千
代田区立図書館を利用したものです。ある日、偶然に図書館入口の掲示板に貼られた廖文
毅の台湾共和国臨時政府総会の案内文が目に入り、二階の入口まで覗きにいきましたが、
どこかで国民党特務スパイが見張っているかもしれないという恐怖心から、結局中に入る
勇気がありませんでした。このとき初めて日本は真の言論の自由が保障され、集会の自由
が認められた国であることを認識し、羨ましく思いました。

 今まで、台湾についてどちらかというと無関心だったのですが、このとき以来、自分の
心の中にあった漠然とした台湾像がはっきりと形になって現れ、自分は台湾人であること
を強く意識するようになりました。

 卒業してからの職場は東京警察病院でした。勤務中、いろいろな同郷の先輩諸氏との出
逢いがありました。中学時代の恩師、王育徳先生を始め、世界台湾同郷会連合会の会長だ
った郭栄桔氏、総統選挙で蒋介石の対立候補として堂々と戦った台湾人の郭雨新先生など
で、これらの人たちは皆台湾の将来を憂い、台湾のためには命を惜しまない面々でありま
す。

 東京理科大学教授だった周英明先生はよく私のことを「台湾独立建国軍の軍医」と呼ん
だものです。いろいろな人とお付き合いさせていただいた影響で、私は台湾人と台湾国の
アイデンティティについて勉強させられました。

 去年五月、馬英九政権に交替、知日派から友日派になりたい、台湾と日本の友好関係を
重視との発言。六月の尖閣諸島海域での「聯合号」事件では台湾の劉兆玄・行政院長は日
本と「一戦も辞せず」の声明。中国との急接近など、情勢が一挙に変わり、昔日の国民党
恐怖政権の再来かと心配する人もいます。

 日台は運命共同体であり、台湾も日本も私の大切な故郷であり、国でありますから、日
台共栄のためにも頑張らなければなりません。そして一日も早く真の台湾主権独立の国家
の誕生が来る日を!!

                         【機関誌『日台共栄』2月号より】



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