ただいています。第6弾をお届けします。 (編集部)
■李登輝学校修業證書を拝領した者として[埼玉県 猪鼻嘉行]
1.はじめに
仕事の都合でこれまで参加できずにいた私が、第五回李登輝学校研修団に参加でき李登
輝校長ご自身の手から修業證書を戴いたときの感動は、実に身の引き締まる思いと身震い
を禁じえなかった。
思えば私と台湾との出会いは昭和63(西暦1988)年、李登輝總統就任の年であった。以
来、台湾を見続けて来た者としてこの機に李登輝学校で受けた講義と私の台湾に関する認
識について関係するところを小論に纏めてみようと思う。
2.日本とシナ、台湾とシナ、そして日本と台湾
我々日本人はシナ(ここで「シナ」とは、中華民国成立以前の現在の中国地域または政
権をいう。以下同じ)とは古くから付き合いがあると思っている人々が多い。しかし、果
たしてそうだろうか。歴史的にみれば多くの事物がシナからもたらされ学んだことは事実
としても、正式な国交を持ち定期的な交流をしたのは平安時代の遣唐使のみではないか。
2000年の歴史の流れからみれば、日本とシナとは幾つかの点としての付き合いしかない。
しかも、日本はシナの事物をそのまま受け入れることはなく、日本に合うもの、または日
本に合う形に変えてからしか吸収していない。日本が儒教国と錯覚している向きもあるが、
儒教ですら社会的制度としてではなく、武士階級の道徳律としてしか受け入れてはいない。
一方、台湾もその最もシナとのつながりが深かった清朝の時代においてですら、清朝は
台湾の西側沿岸の台北、台中、台南などの都市を点でしか支配していない。
李登輝学校における台湾の歴史についての講義のなかでも、このことは指摘されていた。
台湾全島が一体となり、そこの住民が台湾人意識をもつことができたのは、日本時代の近
代教育を受けてからのことであると。
台湾は、歴史的には海洋国家としての台湾と、シナの一部としての台湾という側面の時
代区分ができるが、台湾が発展したのは海洋国家としての台湾の時代である。
日本も、海洋国家であるイギリス、アメリカすなわちアングロサクソンとうまく付き合
っているときは発展し、シナに目が行き過ぎたときに失敗しているという岡崎冬彦氏の政
治史的側面からの指摘と、経済発展史からみた台湾に関する結論とがみごとに一致してい
るのは非常に面白いという、黄昭堂先生のご指摘は興味深いものがあった。
日本と台湾との海洋文明圏としてのつながりは旧石器時代に遡ると思われるのである。
日本の主に太平洋側の各地から発見される石器「石のみ」は、大木を繰りぬいて丸木舟を
作るための道具と考えられているが、これと同型の石器は沖縄及び台湾からも発見されて
いる。しかも南に行くほどより古いものであることが知られている。日本と台湾との地理
的・歴史的関係は、黒潮文明圏とでも名づけてもいい共通性をもっていると言っても過言
ではあるまい。東京理科大学名誉教授の周英明先生も同一の見解をお持ちである。台湾原
住民の描く模様が、遠く離れた北海道のアイヌの人々の描く模様と良く似ているように感
ずるのは私ばかりではあるまい。
3.2・28事件と日本
2・28事件とは昭和22年(ここでは敢えて日本の年号を使用した。この意味は後に明らか
にする)2月28日に端を発した、中国国民党の軍隊による台湾住民への虐殺事件である。
台湾は、日本がポツダム宣言を受諾することを表明したあと、連合国軍として蒋介石の
率いる中国国民党軍に対して武装を解除し接収された。この中国国民党軍は日本の敗戦に
よる無政府状態の台湾を保安し、戦後処理を行うための進駐軍に過ぎないはずであった。
しかし、彼らは台湾人を守るどころか自ら暴徒と化し、台湾住民の財産を奪い、婦女を
暴行し、台湾の米を勝手に大陸へ輸出し、塩タバコなどの専売品を私するなどの暴政を極
めたのである。台湾人がこの圧制に反発し、闇タバコを売っていた女性に対する中国人の
暴力がきっかけとなって爆発したのが、2・28事件の端緒である。
台北で発生したこの事件は、2日後には台湾全島を巻き込む事態となった。事件の鎮圧に
あたるべき民生長官の陳儀は、最初は話し合いによる解決を約束しながら、その裏では蒋
介石に軍隊の応援派遣を求め、援軍が到着するや2万人とも言われる台湾人を虐殺したので
ある(しかし、実際の被害人数は今もって正確には確認されていない)。
台湾人及び日本人の多くが、中国国民党軍による台湾接収をもって台湾は中華民国のも
のになったと思っているようであり、この事件に対する日本人の関心は薄く、また、当時
の日本にはあまり正確には伝えられていないようで、2・28事件を知っている日本人は数少
ない。
しかし、台湾が正式に日本ではなくなるのは昭和27年にサンフランシスコ平和条約にお
いてポツダム宣言を受け入れ、台湾を放棄したときである。しかも、台湾人の国籍が中華
民国であるといえるのは、サンフランシスコ平和条約締結の後に日本と中華民国との間で
締結された日華平和条約を待たなければならない(日華平和条約 第10条「この条約の適
用上、中華民国の国民には、台湾及び澎湖諸島のすべての住民及び以前にそこの住民であ
った者並びにそれらの子孫で、台湾及び澎湖諸島において中華民国が現に施行し、又は今
後施行する法令によって中国の国籍を有するものとみなす。」以下省略。)。
つまり、サンフランシスコ平和条約締結まで正式には台湾は日本の一部であり、日華平
和条約締結まで台湾人の国籍は日本であったということなのである。昭和22年の2・28事件
は戦後処理のために進駐した連合国軍に日本人が虐殺された事件なのである。2・28事件の
真相を知った我々日本人は、まさに我が事として2・28事件を考え、もし、中国国民党の党
首である馬英九氏が日本に再び来ることがあれば、この事実をつきつけようではないか。
4.日本政府の誤り、蒋介石の誤り
上に紹介した日華平和条約の第10条は文末が「みなす」となっている。「みなす」とは
「本当のところは分からないが取り合えずそういうことにする」という場合に用いる法律
用語である。日本が領土としての台湾を放棄しただけで、その帰属先を決めなかったため
、そこに暮らす住民の国籍はどうしたらよいかわからないので中華民国人として扱うこと
にし、日本政府はそのことに文句を言わないというのがこの条項の意味となろう。
当時の日本政府の誤りは、中華民国政府に対し、かつての同胞である台湾人に住民自治
権を認めさせようとしなかったことである。このことが昭和20年当時、いずれかの国の植
民地であった地域のうち唯一台湾が独立できない原因のひとつとなっている。
一方、蒋介石はシナ文化の常識にのっとり、勝者として台湾を戦利品よろしく奪ってし
まったのである。もし彼が近代法及び国際法を知っていたなら、台湾接収後直ちに台湾人
による自治政府を作り、平和条約締結後住民の意思として自らの今後を決定させるべきで
あった。そうであれば台湾は、
1)日本に帰る。
2)国連の又はその他の国の委任統治を受ける。
3)中華民国の一部になる。
4)自ら独立建国する。
という四つの選択肢のいずれかを自ら選ぶことができたのである。
台湾に暮らす人々は、日本政府及び蒋介石のこれらの誤りにより、今もって「台湾に生
まれたことの悲哀」を味わい続けているのである。
5.結びにかえて
歴史には常に明の部分と暗の部分とがある。日本時代の台湾でもしかりである。
日本時代の台湾人は、日本語がうまく使えないことで2等国民として差別され、戦後は日
本政府に切り捨てられた。しかし、彼らは歴史の暗の部分を克服し戦前の日本教育を受け
たことを誇りとし、日本文化の素晴らしさに今の日本人以上に精通し、歴史の明の部分を
高く評価してくれている。李登輝校長はその代表である。
今後も多くの日本人が李登輝学校に参加することを期待するのみならず、そのように日
本人を導くべく我々修業證書を戴いた者の責任は大きい。そして日本人が日本を、台湾人
が台湾を、日本人は台湾を、台湾人は日本を、正しく認識しあうことによって、日本と台
湾とが新しい国の形を作り上げていくことがこのアジアのみならず世界の平和に繋がって
いくことを信じてやまない。
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