に当たり、台中市内に巨大な逆サイホンの水管を敷設し、「白水圳(はくすいしゅ
う)」
と呼ばれる農業用の水路を造って農地を潤した日本人技師だという。
磯田謙雄の地元・金沢市の北國新聞は、この水路を今でも使っている台中市ではよく知
られている日本人だと報じ、この情報を伝えてきたのは許世楷・前駐日台湾代表だとも伝
えている。これぞ「ニュース」だ。下記にご紹介したい。
北國新聞に写真を提供しているのは、本会とも縁が深く、本誌でも『台湾の諺』を台湾
で出版したことを紹介した台中会世話人の喜早天海(きそう・たかひろ)氏。
◆台中会世話人の喜早天海氏らが『台湾の諺』を台湾で出版、日本でも購入可
http://melma.com/backnumber_100557_3149827/
台湾に「水利の父」もう一人 金沢出身で八田技師の後輩、磯田謙雄
【北國新聞:2011年10月12日】
http://www.hokkoku.co.jp/subpage/HT20111012401.htm
*写真:磯田技師が敷設した逆サイホンの水管(緑色)と、台湾中部大地震後に新設され
た水管(水色)=台中市新社区(喜早天海氏提供)
日本統治時代の台湾で、巨大な逆サイホンの水管を敷設し、農地を潤した日本人技師が
いた。その名は「磯田謙雄(のりお)」。烏山頭(うさんとう)ダムを建設した八田與一
(はったよいち)技師と同じ金沢出身の磯田技師は、水路がある台中市新社区ではよく知
られた存在で、毎年10月14日に通水記念式も行われる。だが、金沢に足跡を伝える物はほ
とんどなく、来年の通水80周年に向けて金沢と交流計画を進める現地関係者は、もう一人
の「水利の父」の顕彰へ情報を求めている。
磯田技師が設計したのは「白水圳(はくすいしゅう)」と呼ばれる農業用の水路で、
1932(昭和7)年に完成した。全長約17キロを22カ所のトンネル、14カ所の橋でつなぐ大規
模な水路で、中でも渓谷を渡す3本の逆サイホンが特筆される。直径1メートルの鋼鉄製
の水管を日本から運び込んだ。
水管は99年の台湾中部大地震で損壊し、新たな水管が敷設された。だが、地元住民は日
本統治時代の水管を撤去せず、塗装し直して管理を続けている。
9月初め、金沢ふるさと偉人館に、台湾の前駐日代表、許世楷氏(台中市)らを通じて
地元関係者が情報提供を求めてきた。
松田章一館長が、旧制四高の卒業生名簿などを調べたところ、磯田技師は八田技師の7
歳年下で、旧制金沢一中(現泉丘?)、四高、東京帝大から台湾総督府へと、八田技師と
同じ道を歩んでいた。烏山頭ダムの建設にも従事していたとみられ、松田館長は「兄貴分
の八田技師が台湾に呼び寄せたのだろう」と推測する。
もっとも、磯田技師に関する資料のほとんどは台湾の国立中央図書館から取り寄せた。
本籍が金沢市上松原町(現尾山町)であることを示した履歴書や、帰国後に真柄組(現真
柄建設)の相談役土木部長を務めたことが分かる台湾関係人名簿などは、全て台湾側の資
料。金沢で磯田技師を知る人はいまだ見つかっていない。
八田技師の功績が台湾で脚光を浴びる中、白水圳の地元では「磯田技師のふるさと
を知りたい」との機運が高まっている。金沢との橋渡しをする許氏は「台中では30代の若
い世代が白水圳に関心を持ち、金沢との交流を望んでいる」と話す。2008年の小松─
台北便就航時に金沢を訪問し、辰巳用水を兼六園から金沢城へ逆サイホンで引き込んだこ
とを聞いたと振り返り、「兼六園の技術を台湾に持ち込んだのではないか」と想像してい