ず)公学校のことを書いた一文「これが殖民地の学校だろうか」を掲載したことがあり
ました(11月4日発行、第401号)。また、林彦卿氏の「海を渡る蝶アサギマダラ」とい
う文篇を紹介したこともありました(4月17日発行、第502号)。
いずれも初出は「榕樹文化」という、台湾で生まれ育った日本人(湾生)や台湾人が
集い榕樹会(小川隆会長)というグループをつくり、年4回発行している雑誌です。編
集長は本会会員でもある内藤史朗氏です。
この「榕樹文化」の最新号(第20号)に、20号発刊を祝し、榕樹会創設時より顧問を
務め、本会理事でもある山口政治(やまぐち まさじ)氏が「井上伊之助の生涯−『椿
樹文化』第20号発刊を祝す」という一文を寄稿されています。
山口政治氏といえば、最近、長らく東台湾研究の一級資料の名著で、絶版となってい
た『東台湾開発史』を改訂して、労作の大著『知られざる東台湾史−湾生が綴るもう一
つの台湾史』を上梓していますが、体験に裏打ちされた該博な知識には脱帽です。
この井上伊之助という人物にしても、台湾研究者でさえどれほどの人がその名前を知
っているでしょうか。こういう人物が台湾の開発に尽くしていたことを知ることは、私
ども後進の者にとっては喜びです。
早速、ご紹介します。長文ですので2回に分載します。漢字を開いたりメルマガ用に
改行するなど、少し編集させていただいていることをお断わりします。 (編集部)
山口政治(やまぐち・まさじ) 大正13年(1924年)、台湾・花蓮港庁吉野村生まれ。旧
制台北高等学校、京都大学法学部卒。昭和23年に労働省に入省し、年少労働課長、愛知
労働基準局長などを歴任し同52年に退官。この間、内閣総理大臣官房、大分県庁へ出向。
以後、産業医科大学常務理事、安田火災海上保険顧問などを経て、現在、ユースワーカ
ー能力開発協会会長、日本李登輝友の会理事、榕樹会顧問、蕉葉会副会長。主な著書に
『太魯閣小史』『東台湾開発史』『知られざる東台湾史』など。
井上伊之助の生涯−『椿樹文化』第20号発刊を祝す【上】
台湾原住民のために生涯を捧げた「台湾のシュバイツアー」と呼ばれた伝道師
榕樹会顧問 山口 政治
『植樹文化』第20号刊行お目出とう御座います。7年前、小川隆会長から本会報発行
の趣旨と内藤史朗氏が編集にあたると聞き、直ちに賛成したことを思い出す。台湾関係
者にとっては、表題がぴったりである。唯、この種の雑誌は兎角長続きがしないものだ
と気にしていたが、発足後、会員は順調に増え、内容も充実し、見事に続行しておる。
本誌の特長は、台湾と日本の会員が相半ばしていることで、台湾から、蔡焜燦、林彦
卿両先生はじめ著名な人が昔を懐かしむような投稿があり、「昔を今になすよしもがな」
と、心を癒され、喜んでいる。
表題の「榕樹文化」は、我々湾生を引きつけるが、日本の方で聞き慣れない方も居る
と思うので、参考までに紹介しておこう。
「榕樹」とは、熱帯・亜熱帯に産する桑科の常緑植物で、一名「ガジュマル」と呼ば
れ、栴檀、相思樹、鳳凰木、木麻黄等と共に台湾を代表する植物である。昔、「ガジュ
マルさん」と題する童謡があって、人々に親しまれていた。私は会報を手にする度に歌
っている。
1.お歳召したか、ガジュマルさん 長いおひげをだらり下げ
フラフラ風に ゆられてる
2.生まれましたか ガジュマルさん 緑の若葉チョイと見せ
おひげの側で 覗いてる
3.暑くないかね ガジュマルさん 強い真夏の陽を受けて
緑の若葉 すーく すく。
榕樹の木は、高さ10〜20メートル以上に伸び、傘を広げた形をして繁茂し、幹は多数
分岐し、それぞれの枝から、歳をとる毎に細い気根が垂れ下がる。暑い台湾では、涼を
とる格好の場となっていた。ゆらゆら揺れる細いお髭が何とも言えぬ優しさを感じさせ
ていた。ところが、根は大地に深く食い込んで強く、防風林の役目を果たしている。
こうして青春時代にお世話になった榕樹を、表題としたことは素晴らしく、読者の皆
さんは喜んでいる。
ところで、本誌発刊に携わった人も、そろそろお歳を召されて、ラホヤになりつつあ
り、歌詞になぞらい、後輩の協力と活躍が期待される。
私は、台湾は日本時代に三族が一体となって築き上げたことに誇りを持つ一人であり、
それを象徴するかのごとく、本誌が発行され、日台親善関係の絆となることに満幅の信
頼をおいている。
さて、今回20号の祝辞にふさわしい話題はないものかと、小川会長、内藤編集長と連
絡をしている時、はたと浮かんだのが、井上伊之肋さんのことである。
井上伊之肋さん(以下、井上)は、36年間、台湾の原住民の啓蒙、福音に力を尽くし、
「台湾のシュバイツアー」と言われるほどの功績を残したが、地味な活動たったためか、
余り知られていない。
そこでこの際、同氏が台湾原住民のために捧げた生涯の一端を知ってもらい、今日に
繋げたいとペンを執った。
井上は、明治15年、高知県西土佐村に生まれ、小学校の高等科を終えて、岡村医院、村
役場、税務署の雇い員等を勤め、この頃からキリスト教にひかれ、幸徳秋水の演説にも
耳を傾けていたが、明治32年、青雲の志を立てて上京し、昼間は中央郵便局に勤めなが
ら、夜間は大成学館で勉強した。同36年、洗礼を受けて正式にクリスチャンとなり、38
年、聖書学院に入学した。この間、神田のYMCAで内村鑑三の講演「聖書の真髄」を
聞き、以来、終生師事することとなったのである。
明治39年、大宮の氷川公園で、中田重治の指導を受けていたとき、父弥之助が台湾の
果てで、原住民のタロコ族に殺害されたことを高知の弟から葉書で知り驚愕し、大きな
ショックを受けた。
井上はそれまでに、台湾では首狩りの風習があると間いていたが、まさか自分の父が
その惨事に遭うとは夢にも思わず、手が震え、胸は裂けんばかりとなり、終日父のため
に祈り、仇討ちをしようと考えた。
ところが、井上の仇討ちとは、曽我兄弟のような仕打ちではなく、「汝の敵を愛せよ」
「汝の顔を打つ者には、他の頬をも向けよ」「悪をもって悪に報いぬよう、慎め」とい
う崇高なもので、衝動的なものではなく、未開野蛮な蕃人達に、全生涯を捧げて福音を
伝道する愛の布教だった。
明治43年、井上は銚子の犬吠崎の松原で友人と徹夜でお祈りをしている最中、神より
蕃人に対する伝道の召令を与えられ、いよいよ台湾に渡ることを決心した。
(つづく)