大東亜戦争末期、少年飛行兵として選抜され、陸軍航空整備学校奈良分校で教育を受けた台湾人のうち、蔡焜燦氏をはじめ5人が日本への想いを語った記事です。
昭和20年2月から奈良で教育を受けたものの、半年で終戦を迎えることになりました。志半ばで除隊となったことは、内地の軍人と同じく失職を意味し、台湾へ帰還する迄の間、生活が大変であったことが語られています。ただそのなかでも、米軍に接収されるまでの間、飛行機の整備を任される等、内地人から分け隔てなく信頼されていると感じたことがあったと言います。
現在の日本観としては、それぞれ異なる点もあるようですが、口を揃えるのは、戦後の日本は歯痒くて仕方がないと云うことです。内閣総理大臣はどうして靖国神社に参拝しないのか、大東亜戦争中日本人が果敢に戦ったことを忘れてしまったのか、と述べています。
また、年輩の日本人は台湾人に対して親切であるが、若い人のなかには傲慢な態度で台湾人に接する人がいるとの発言もあります。同じ大東亜戦争を戦ってきたのに、戦後40年以上が経過して、それを忘れてしまった日本人がいるのは大変嘆かわしいと述べているのです。
戦後の台湾では、外省人の政権が続いていた間、「台湾」を語ることは困難な状況にありました。日本において台湾人は親日的であることはよく知られていたものの、必ずしもその親日的な心情の中身が理解されてはいなかったのでした。
実は、台湾人の親日感情が、単に過去への懐旧だけからくるものではなく、親身になって日本の現状と将来を心配してくれているものであることが知られるようになったのは、平成の初め頃だろうと思います。台湾で、「台湾独立」を自由に主張出来るようになり、同時に、日本語世代の人が戦中戦後のことを語る機会が多くなり、そして日本への想い、「日本人は胸を張れ」との日本への苦言も述べるようになったものと思います。
例えば、李登輝総統が司馬遼太郎氏に語った「台湾人に生まれた悲哀」、鄭春河氏の著書『嗚呼大東亜戦争』、呉建堂氏の『台湾万葉集』、そして、短い記事ながらも注目を集めた、上記の新聞記事は、その現れの一部なのでした。
戦後約40年が経過して日本語世代の台湾人と日本人は再び邂逅しました。台湾の日本語世代の人達は、懸命に働いて台湾の経済成長を支えていた間、日本への想いを胸に募らせていたものと思います。そして、平成初年頃から、それを迸るように語り始めたと言ってよいと思います。それから約20年が経過しました。未だ未だ、今のところ短い邂逅と言うべきでしょう。日本語世代の人達には、これからもお元気で長く、日本人に向けていろいろと語っていただきたいと思います。
また、上記記事の末尾にあるように、我々日本人は、日本語世代の人達がいつも日本のことを考えて下さっていることに、少しでも報いるには更めてどうすればよいかを考えなければならないと思います。 (平成24年8月29日に投稿した文章の再投稿です。)