【読売新聞:2013年1月6日】
「路(ルウ)」という優しくゆったりとした響きを持つタイトルがこの長篇小説のすべ
てを表現しているといっていいだろう。
本書の主人公、多田春香は日本商社の台湾新幹線事業部で働く入社4年目の女性社員だ。
物語のオープニングは、台湾での高速鉄道開設に際して日本の新幹線技術採用決定の喜び
に沸くオフィス風景である。こうくると、次はいよいよ開設へ向けて、主人公たちによる
「プロジェクトX」張りの血と汗と涙のストーリーが展開されるものと思うのが自然だろ
う。ところがこうした読者の予想をあざ笑うかのように、本書にはギスギスしたビジネス
の話は全くといっていいほど出てこない。主題となるのは、日本と台湾の交流が織りなす
さまざまな人間模様である。
本書に登場する日本人と台湾人はきわめて対照的である。主人公も含め日本人はせかせ
かしている上に、多かれ少なかれ心の傷を負っている。旅先で偶然出会った人との忘れが
たい思い出を引きずっていたり、妻との離婚問題を抱えていたり、さらにはかつて親友を
裏切ったことへの悔悟の情に苛さいなまれていたりと状況はさまざまだ。それに対して、
台湾の人たちは自分たちの置かれた境遇はさておき、みな細事にこだわらず明るい。物語
では、そうした南国特有のおおらかな人柄と暖かい気候に包まれて、日本人たちのささく
れた心が徐々に癒やされていく様子がきめ細やかに描かれていく。
ある週末の朝、いつものように台北の街に出た春香は、「立ち止まった時の景色が世界
一美しい街」だと感じる。雑然とした風景、ゆったりと流れる時間、そしてそこで悠然と
暮らす人びと、これほど言い得て妙な表現はなかろう。そして、本書はこの景色そのもの
なのだ。読み終えた人に心の安らぎを与えるだけでなく、すぐにでも台湾の風土に接して
みたいとさえ思わせる不思議な魅力を持つ一冊である。
吉田修一(よしだ・しゅういち)
1968年長崎県生まれ。法政大学経営学部卒業。97年「最後の息子」で第84回文學界新人賞
を受賞しデビュー。02年『パレード』で第15回山本周五郎賞、「パーク・ライフ」で第127
回芥川賞を受賞、07年『悪人』で第61回毎日出版文化賞、第34回大佛次郎賞、10年『横道
世之介』で第23回柴田錬三郎賞を受賞する。
・書 名:『路(ルウ)』
・著 者:吉田修一
・体 裁:四六判、上製、448ページ
・版 元:文藝春秋
・定 価:1,650円+税
・発 売:2012年11月21日