洪坤山と台湾歌壇  蔡 焜燦(台湾歌壇代表)

以前、本誌(4月1日号)で、蔡焜燦・台湾歌壇代表が『今昔秀歌百撰』(文字文化協
會、平成24年1月25日刊)に発表された「洪坤山と台湾歌壇」を紹介したことがありまし
た。「台湾歌壇」同人で、蔡代表が義兄弟の契りを結ぶほどの仲だった洪坤山(こう・こ
んざん)氏の秀歌「北に対(む)き年の初めの祈りなり心の祖国に栄えあれかし」に、本
会初代会長で作家の阿川弘之氏が絶句してしまったと「文藝春秋」の巻頭随筆「「葭(よ
し)の随(ずい)から」でつづっていたことや、「台湾歌壇」創設のエピソードなどにつ
いて書かれています。

 今年で45年の歴史を持つ「台湾歌壇」についてより深く知っていただくため、ここに再
掲します。

 また、「台湾歌壇」同人で、歌人の森田忠明(もりた・ただあき)氏が主宰する「日本
歌壇」同人でもある本会事務局長の柚原正敬(ゆはら・まさたか)氏が歌会誌『日本歌
壇』に発表した随筆「台湾歌壇のこと」を別途ご紹介します。


洪坤山と台湾歌壇

                             蔡焜燦(台湾歌壇代表)

  北に対(む)き年の初めの祈りなり心の祖国に栄えあれかし   洪 坤山

 少年のやうに澄んだ瞳の洪坤山。満身病気の巣窟のやうな状態の洪坤山ではあつたが、
日本のこと、短歌のことになると瞳をキラキラ輝かせて急に活気づいてくる。晩年、人工
透析をしながらも桜前線を追つて、夫婦で日本を南から北へと旅したのも、日本をこよな
く愛すればこそで、「不思議ですよ、日本へ着くとすつかり元気になるのだから」と奥さ
んを喜ばせてゐた。

  わが波乱の人生のそのひとコマに大和村なる少年期の日

 洪坤山は、戦局厳しい昭和18年に、働きながら学ぶといふ名目で試験を受けて13歳で海
軍軍属として日本内地へ渡り、戦闘機の製作に従事した所謂「台湾少年工」であつた。

 少年工の日々は苦しいことばかりで、約束の卒業証書も貰へぬまま日本の敗戦で軍隊は
解散、8400人の台湾の青少年たちは異郷の地に置き去りにされ、自分たちで帰台の道を画
策し、日本ではなくなつた故郷の台湾へ帰つて来た。

 国籍も国語も変つた台湾で、帰国した青年たちの生活は辛酸を極めたが、彼らは後に
「台湾高座会」を組織して台日の民間交流では最大の団体となつてゐる。

 日本時代に台湾に生まれた私たちは生まれながらの日本人であり、教育を受け、日本精
神を教へられてそれを誇りにしてきた。私自身も岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に入学
した身であり、読書も思索も日本語であり、寝言までもが日本語であつた。日本語、日本
の心の美しさに魅せられて和歌を楽しむ人たちもかなりゐた。

 「台湾歌壇」の前身「台北歌壇」を創設した孤蓬万里こと呉建堂氏は、次のやうな短歌
を詠まれてゐる。

  万葉の流れこの地に留めむと生命(いのち)のかぎり短歌(うた)詠みゆかむ

 この歌のとほりに、台湾歌壇の同人たちは命の限り今も短歌を詠い続けてゐる。今でも
日本を心の祖国と思ふ日本語世代は多い。

 冒頭の洪坤山の短歌は、作家阿川弘之氏が奥様に呼んで聞かせようとして「涙が溢れ出
し、声がつまつて、説明が説明にならなくなつた」と「文藝春秋」の巻頭随筆「葭の随か
ら・76」に書かれてをり、これがきつかけとなり洪坤山は阿川氏とご縁が結ばれたことを
大変喜んでゐた。

  初対面にわが手を固く抱きかかへたる阿川氏の温み今も残れる

 阿川弘之氏のご自宅を訪問した時の歌である。

 七転び八起きの波瀾の人生の最後に、洪坤山は自分が一番やりたかつたことにやつと専
念できるやうになつたのだが、その時には様々な病気が巣食ひ、顎の骨を折つて会話もま
まならぬ状態であつた。だが、彼は熱心に和歌を詠んだ。『闘病の日々』といふエッセイ
と短歌を集めた著書も上梓した。

 また、台湾の歴史を勉強してゐた。子孫に正しい台湾の歴史を残したいといふ願ひをも
つてゐたからだ。ただの歌詠みではなく、台湾を愛し、日本を愛する熱血の人であつた。
花を愛した洪坤山だつたが、彼のエッセイの中に「山茶花の様に最後の一ひらまで生きた
くもない。ひたすら桜の様に潔く散っていく事を願うのみである」と書いてあり、桜の季
節に潔く散つてしまつた。

 義兄弟の契りを結んで僅か半年の短い期間ではあつたが、私はこの弟を誇りに思ひつつ
も、なぜもつと長生きしてくれなかつたかと悔しい想ひが過ぎるのである。

  弟よ国の行く末語る時汝が眼光の炯炯たりしを

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