八田與一の遺志継いだ部下  喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)

八田與一の遺志継いだ部下  喜多 由浩(産経新聞文化部編集委員)

【産経新聞「台湾日本人物語 統治時代の真実(16)」:2020年10月28日】https://special.sankei.com/a/column/article/20201028/0001.html

 八田與一(はった・よいち)(1886〜1942年)のことは、もはや詳しく書く必要はないだろう。台湾総督府の土木技師として、東洋一の規模を誇った、総延長約1万6千キロメートルの給排水路を持つ大規模灌漑(かんがい)施設「嘉南大[土川](かなんたいしゅう)」の大工事を、設計から中心となってやり遂げた。約15万ヘクタールにも及ぶ土地に給水するため、川を堰(せき)止めて築かれたのが、高さ56メートル、堰堤(えんてい)長1273メートルの巨大な「烏山頭(うざんとう)ダム」である。

 昭和5(1930)年に竣工(しゅんこう)した施設によって干魃(かんばつ)や塩害に悩まされていた不毛の大地(嘉南平原)には、日本統治時代に開発されたジャポニカ種の「蓬莱(ほうらい)米」などが植えられ、台湾きっての豊穣(ほうじょう)な大穀倉地帯へと生まれ変わる。住民の生活も飛躍的に向上した。

 ダム近くの八田の銅像は戦後も地元住民らによって守り続けられ、一部でトラブルに見舞われたものの、命日には今も関係者が集まって墓前祭が行われている。八田については台湾の李登輝元総統らが称賛し台湾の教科書にも載った…。

◆一緒に遭難も…

 だが、八田と同じく、台湾の近代化のために、熱い情熱と高い志をもってこの地に献身した「知る人ぞ知る人物」は数知れない。

 ここで取り上げるのは八田と同郷(石川県)、同窓(旧制四高−東京帝大)で部下だった台湾総督府技師、宮地末彦(みやじ・すえひこ)だ。八田が信頼を置いた部下の1人と言っていいだろう。

 八田は17年5月8日、綿作灌漑の指導のため、フィリピンへ向かう途中の東シナ海で、乗船していた「大洋丸」(約1万4千トン)が米魚雷によって撃沈されて亡くなった。同行していた部下は3人。そのうち九死に一生を得て唯一、生還したのが宮地である。

 宮地は戦後、そのときの様子を記した「遭難の記」(昭和55年)を書く。

《…食事が終わってのんびり一服して居(い)ると突然至近距離落雷を思わすたたきつぶすような鋭い大音響と震動にすわと立ち上がった》《…二発目の魚雷が命中…》《(救命ボートの)ロープが切れてバラバラと全員が投げ落とされた》《…大洋丸は船首を垂直に立てると一瞬くらい海中に消えて行(い)った》

 カッター(小艇)に必死で這(は)い上がった宮地は翌朝、救助にきた艦艇に救助される。だが、八田と2人の同僚は暗い海中へと消えた。《助かったのは(1300人中)約三百名※記録では500人余り。八田さんらとは遂(つい)に再び会う事(こと)が出来(でき)なかった》

 宮地の三男、利彦(77)は言う。「父は戦後、台湾の話をほとんどしなかった。1人だけ生き残った、後ろめたさのような気持ちがあったのかもしれません。ただ、遭難のことはどうしても書き残しておきたいと思ったのでしょう」

 生還した宮地は、八田の遺志を継ぐべく、翌18年に再びフィリピンへと渡っている。だが、資材不足などですでに工事ができる状況にはなかった。

◆嘉南大[土川]を救う

 時計の針を戻したい。

 宮地が東京帝大恩師の推薦によって、台湾総督府に採用されたのは、嘉南大[土川]完成翌年の昭和6(1931)年のことだった。宮地は農学部出身で専門は「農業土木」。採用時に、総督府内務局長から総督へ宛てた6年7月18日付「内申」書が残っている。

《灌漑及排水事業計画ニ関スル事務ヲ嘱託 月手当百二十円(現価で約25万円)》とした上で、採用理由について、こう書いている。《当局(内務局)ニ於テ実施中ニ係ル各地灌漑及排水事業計画ノ進捗ニ伴ヒ農業土木専修ノ技術者ヲ採用スル必要有…》と。

 宮地は、台北へ戻った八田から、嘉南大[土川]の維持管理を任される。

 『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』を書いて八田のことを日本に知らしめた古川勝三(ふるかわ・かつみ)(76)は生前の宮地にも会っている。「ダムの水を全部抜いて調べたら土砂の堆積量が多いことが分かった。対策として(周囲に)植林することを指導したのは宮地さんでした」

 嘉南大[土川]の「三年輪作給水法」(限られた水を土地を3分して順番に給水し、作る作物を変えてゆく方法)が終戦後、崩れてしまう。台湾の農民が勝手に水門を開けて給水し、作りたい物を作り始めたからだ。その危機を救ったのもまた、「留用」で台湾に残されていた宮地だった。

 古川は言う。「嘉南大[土川]は三年輪作給水法を前提に造られたから、一度に水を流したら終わり。宮地さんはそのことを根気よく説得して回ったのです」

◆技術者気質の男

 宮地が手掛けたのはそれだけではない。台南と高雄の間の岡山地区もまた水利事業が求められていた。そこを流れる阿公店(あこうてん)渓を堰止めて、洪水調整・灌漑用水供給用の「阿公店ダム」の建設工事が始まったのは昭和14年のことだった。

 14年10月14日付の台湾日日新報には、工事の主任技師として宮地の名前が載っている。八田のアイデアを基本に発展させた阿公店ダムの堰堤の長さは、烏山頭ダムを上回る2380メートル。台湾第一だった。

 ところが工事は難航。戦争が始まり、17年、八田とともにフィリピンへ行くことになった宮地は別の技師へ引き継いだが、20年7月、工事は中断。戦後、宮地らの基本設計をそのまま引き継いで台湾人技術者の手によって、1953年に竣工した。1997年には大規模な改修がなされ、現在に至っている。

 宮地は、八田から「ダムは50年の命だ。次のことを考えろ」と指示され、新たなダムの計画を練っていたという。宮地が中心になって調査・計画した曽文ダムも戦後、日米の支援の下、台湾人の手によって完成された。現在は、台湾最大のダムである。

 利彦は言う。「八田さんにはかわいがってもらったようです。欧米の専門誌の翻訳を任されたと聞きました。父が担当した工事は戦争によって半ばになったものが多かったが、台湾の近代化へ尽くしたい情熱は負けていなかったと思う」

 戦後、農林省(当時)などに勤めた宮地はやはりダムの仕事に携わる。利彦によれば、エジプトのアスワン・ハイ・ダム建設工事(1970年完成)の協力要請が日本にも来たとき、宮地が候補者として挙がったが、実現しなかったという。「父は、根っからの技術者でしたね」

                    =敬称略(編集委員 喜多由浩)=次回は11月11日掲載予定

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【プロフィル】宮地末彦氏(みやじ・すえひこ)明治39(1906)年、金沢市生まれ。旧制四高から東京帝国大学農学部農学科(農業土木専攻)卒。昭和6年、台湾総督府内務局土木課水利係勤務。嘉南大[土川]の維持管理や阿公店ダム建設工事の主任技師として活躍。21年12月、引き揚げ。23年、農林省(当時)関東開拓研究所長に就任。全国でダム、橋梁、港湾の建設に従事した。平成3(91)年、84歳で死去。

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