――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港4)

【知道中国 2122回】                       二〇・八・念五

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港4)

 香港最初の朝である。白川夜船のTさんを起こさないように注意して、ソ~ッと起きてベットの横の梯子を注意しながら下りた。後に知ったことだが、チョットやソットの物音ではTさんは目を覚まさない。相手を慮っての静かな行動は、いわば徒労だった。

 顔を洗って朝飯を食べにエレベーター階下へ。

異な臭いが鼻を衝く。アンモニア臭とでも言うべきか。これまた生活を重ねる中で知ったことだが、犬を引き連れた住民がそのままエレベーターのなかで大小便をさせてしまうのだ。いやはや彼らには公衆道徳も衛生観念もないのか。“義憤”に駆られはしたものの、これまた精神上の空回り。文句を言ってもムカつくばかり。やはり郷に入らば徹底的に郷に従うべし、である。かくて結論は巧言令色鮮し仁ではなく・・・飼犬排便無関心。

 現在は異様としか言いようはないが、当時は偉容とでも形容すべき高層ビル群の一角に、テント張りの屋台が店を構えていた。そこへ飛び込んで、さて、なにを食べるか。ふと見ると、肉体労働者と思しきオッサンが旨そうに粥を啜っていた。それを指さすと、忽ち目の前に湯気の立つ粥が。サジで掬って口に運ぶ。日本の白粥とは違って微妙に出汁が効いていて旨い。後にサジを「艇仔(こぶね)」と呼ぶことを知ったが、たしかにサジは小舟を連想させるだけに見事な命名と感心した次第だ。

 しばらく食べていると、粥のなかから赤黒いブヨブヨした気味悪そうなものが。豆腐にしては不思議な色である。だがオッサンが口にしているんだから、まさか毒ではなかろう。口に入れ噛んでみた。日本では経験したことのない食感と味で、たしかに旨い。これが後に大いにお世話になる「猪紅」――豚の新鮮な血を豆腐状に固めた食材――との最初の出会いだった。なんでも猪紅は胃の消化を助けるとか・・・マサか、である。

口にするモノは薬と同じ。食事即健康・医療というリクツから「医食同仁」とは言われるが、香港での経験から素朴に思ったことは「食」の方が「医」より先立つのではないか。食材に対する飽くなき好奇心と冒険心――いわば貪欲極まりない“食い気”――に突き動かされる様を繕うため、後から滋養強壮がどうのこうのと無理やり屁理屈を捏ねまわして「医」をくっ付けるのではないか。犬、猫、ゲンゴロウ、サソリ、セミ、センザンコウ、コウモリ、ヘビ、猿の脳みそ、イグアナなどの野味(ゲテモノ)は、その最たるものだ。

 さて部屋に戻り、Tさんに連れられ新亜書院へ。この校舎の3階が研究所の事務室だと教えてくれたまま、Tさんは自分の授業に行ってしまった。そこで一人で3階の事務室へ。事務室の前の廊下に置いた机で執務している事務員に、こちらの来意を告げる。後に戯迷(京劇狂い)仲間になる洪さんだ。直ちに小太りな事務局長に取り継いでくれた。事務室の奥が研究所長室で、たまたま所長の唐君毅先生が在室だったことから、入学の挨拶を。

これが、かの高名な哲学者の唐君毅かと驚いたり、感激したり。だが先生の言うことが全く理解できない。日本でしっかりと学び中国語には些か自信があったはずが、何故だ! 後に先生から冗談交じりに、「中国人の学者で訛りのない中国語を話すヤツの学識はロクなものではない」と聞かされたが、北方出身者に真の学者はいない。北方出身学者はダメだということらしい。そういえば先生の出身は四川省だった。

当時の新亜研究所の教授陣について簡単に紹介しておくと、哲学は唐先生に加え牟宗三と徐復観、中国経済史の全漢昇、中国近代政治・思想史の王徳昭、『紅楼夢』を専門に研究する「紅学」の潘重規、中国古代地理学の厳耕望、東南アジア史の陳荊和など。20世紀中国を代表する学者たちが、共産党にも国民党にも与しない独自の研究路線を貫いていた。

 入学手続きも完了したが、そこで大問題に気づかされる。じつは手持ちの資金では、どう計算しても当初の目論見のような長期滞在はムリらしい・・・さて、どうすべきか。《QED》


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