――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(17)
内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)
財政基盤が脆弱である以上、反対勢力との戦いに勝ったとしても、統一した中華民国の安定的経営は無理である。加えて袁世凱が中華民国を担いうる人物かどうかも疑わしい。
「一体袁世凱という人物を日本の当局も買い被っておるという評判が専らであるが、これは日本のみならず、列国とも大分買い被っておる傾きがあると思う」とする内藤は、清末を代表する指導者の李鴻章を取り上げ袁世凱と比較しながら、「西洋文明採用の仕方は」李鴻章の方が「一段と組織立っておるように見える」ものの、「文明の意義というものを十分に呑み込まずに、やはり有形上の利器を採用しさえすればよろしいと思う点においては、やはり同一ではないかと思われる」。だが袁世凱には李鴻章の持つ「誠実さ」も「度胸」もない。「何でも外見を都合よく見せ掛けることだけに骨折って、そうして根柢の仕事というものは、一向にこれをする積りがない」というから、袁世凱という人物は一国の、しかも建国直後の混乱する国家を纏める統領としては相応しくないということだろう。
話を先に進める前に考えさせられるのが、「文明の意義というものを十分に呑み込まずに、やはり有形上の利器を採用しさえすればよろしいと思う点」という指摘だ。これをいいかえるなら「有形上の利器」(=ハード)は「文明」(=ソフト)という培養土によって育ち創造されるという意識を、袁世凱も李鴻章も持ち合わせてはいなかったことになる。
これを改革・開放政策に踏み切った1978年末を挟んだ時期の共産党政権首脳の動きに合わせると、不思議と重なってしまう。ともかくも彼らは日本や欧米の最新技術を求めた。
訪日した�小平にしてから、当時世界最新の新日鉄君津工場の導入を熱望したのだ。ここで我が明治殖産興業時代を思い出してもらいたい。当時の明治政府指導者は超破格好条件で“お雇い外人”を招聘し、とにもかくにも文明の培養土作りに励んだ。時代に差はあれ、「有形上の利器」と「文明」の関係を考える時、彼我の指導者の違いに改めて注目したいと同時に、我が先人の先見性に深い敬意を表したい。
内藤に戻るが、清朝を倒して中華民国という共和制の新国家が誕生したが、それは名義上に過ぎない。中華民国の政権を維持しているのは袁世凱を筆頭に清朝政権中枢であり、「それがために支那数千年来の積弊を掃除することはとうてい出来ない」。その典型が「政治上の事すべてが尾大掉わざる形に陥って、どこにも責任を持つ人間がなく、それから官吏になると、一種の貴族生活をなして、非常の収入を得るということ、あらゆる官吏の無能にしてそうして私を営む」のである。この「私を営む」ことを取り除くことが困難至極なのだ。
「とにかく一口で云えば官場の習気というものを一洗しなければ、いかなる政体であっても、いかなる政府であっても決して完全に支那を統一するということは出来ぬのである」と内藤は説く。蓋し名言というべきだろう。この内藤の明言を“拳々服膺”するゆえに、習近平は長期独裁に突き進み、「私を営む」輩を退治しようとでもいうのだろうか。
時代が前後して申し訳ないが、いわば「政治上の事すべてが・・・そうして私を営む」式の政治を率先してきた「清朝の政権を受け継いだ姿にある袁世凱をして、その弊害の掃除に任ぜしむるということが、とうてい出来得べからざる」ということだ。これをいいかえるなら、旧体制の禄をはみ、「私を営む」を率先垂範してきた人物による軍事的勝利によって「威力上の統一が行われても、結局根本の改革というものは」出来そうになく、「これが出来なければ共和国になっても、結局支那というものがますます衰減に向って行くより外ない」ということになる。
やはり「根本の改革」は「官場の習気というものを一洗」するに尽きる。昔も今も。《QED》