――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘51)橘樸「『官場現形記』研究」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

【知道中国 2090回】                       二〇・六・仲一

――「ポケット論語をストーブに焼べて・・・」(橘51)

橘樸「『官場現形記』研究」(大正13年/『橘樸著作集第一巻』勁草書房 昭和41年)

「朽木は雕(い)るべからず。糞土の牆は杇(ぬ)るべからず」――朽(くさ)ってスカスカの木を雕(ほ)ることはできない。糞(くさ)った土は塗り壁には使えない――という言葉は、「朽木」やら「糞土」の類が差配するゆえに社会が混乱し、不平等・不正義が罷り通ていた社会から生み出されたに違いない。

『荀子(彊国篇)』に「百吏は恭倹敦敬忠信・・・自宅の門を出ると官衙(やくしょ)に、官衙を出れば自宅に直行して私事なし。上司に追従せず同輩と徒党を組まず、高く心を持って万事に精通し私心なし」と見えるが、当時の役人が「恭倹敦敬忠信」など忘れ、自宅と役所の間で道草を重ねヨカラヌことを謀り、「上司に追従」し、「同輩と徒党を組」み、「高く心を持」つことなく、「万事に精通」せずして「私心」だらけだった、ということだろう。

荀子の時代から遥かに下った1906(明治39)年、東京帝国大学文科大学(現文学部)助教授の宇野哲人(明治8=1875年~昭和49=1974年)は、北京に留学する。

前後2年余の留学を機に中国各地を歩いているが、洛陽の県役所を訪れた折りのことを、「縣衙門に至る正堂に待つ間に儀門内の牌樓上に記せるものを見れば、/爾俸爾禄、民膏民脂、下民易虐、上天難凌/と題してある蓋支那の官吏には最適切の訓戒である。若官吏皆この心を心としたならば民治まらざるを憂へず國強からざるを憂へず。然れども之を知つて、而して之を行ふもの果して幾人かある。言行相反せること支那官吏より甚だしきはあるまい」と記している。

つまり洛陽の県役所に出掛けたら、目だつ所にデカデカと且つ麗々しくも恭しく「爾俸爾禄、民膏民脂、下民易虐、上天難凌(キミ等の俸給は人民の汗の結晶だ。下々の民百姓は適当にあしらえるが、天の目は節穴じゃないぞ。権力を振り回しての不正を天は見逃さないぞ)」と書いた看板が掲げられていたのだ。

やはり洛陽の県役所の役人も、自分たちが手にする俸給を「民膏民脂」などと考えないし、日常的に「下民」を「虐(しいた)」げ、「上天」を「凌(おか)」していたに違いない。だが、こんな注意書きを肝心の役人が気に留めるはずもなくパフォーマンスに過ぎない。まるでドロボーがドロボーをフン縛る縄を綯っているようなもの。滑稽で無意味だ。

今から8年前のゴールデンウイークに雲南省の西南端一帯を歩いた時のことだ。

自らを「中国でインド洋に一番近い都市」をキャッチコピーとする芒市の人民政府を訪ねると、先ず目に着いたのが「芒市人民政府領導工作動態」と「芒市人民政府弁公室領導工作動態」と記された大きな表示板だった。

前者には上から市長、常務副市長、副市長(5人)、後者には上から主任、党総支部書記、副主任(2人)、副主任(信訪局局長)、党総支部副書記、副主任(4人)の名前と役職名が記されている。ということは、ここに記された市長以下7人の幹部と主任以下9人の実務責任者の総計16人が芒市人民政府の中核を構成し、地方政治を牛耳り、芒市人民の上に君臨しているのだろう。

この表示板は日付入りで、日々の彼らの公務活動内容(在室、会議、出張、公休)が一目瞭然で判るようになっている。その日は、さすがに主任以下の実務責任者は在室となっていたが、市長以下の幹部は全員が終日会議と記されていた。いったい、どれほどの懸案があって、こんなにも会議を重ねるのか。どだい小田原評定の類を重ねていたに違いない。

芒市人民政府庁舎本館玄関ホールに麗々しく掲げられた「四項制度」は、「政府自らの建設を推進し、政府工作の改革を効果的に促進し、行政機関の作風を好転させ、行政効率を高める」と解説されていた。リッパ過ぎるからウソ。昔も今も、巧言令色鮮し仁。《QED》


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