――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港197)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港197)
【知道中国 2316回】                       二二・一・仲四

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港197)

陳凱歌は習近平より1年早い1952年に北京で生まれ、両親は共に共産党幹部だった。ならば習近平も同じような家庭・社会環境で育った。ここに記されている「当時」は1950年代末期の反右派闘争前後を指すことから推測して、おそらく習近平も「敵に対しては厳寒のように冷たく無情に」といった時代風潮の中で幼少期を過ごした。やはり三つ子の魂百までも、と考えても強ち間違いはなかろうに。

それにしても、である。「昔から中国では、押さえつけられてきた者が、正義を手にしたと思い込むと、もう頭には報復しかなかった。寛容などは考えられない。『相手が使った方法で、相手の身を治める』というのだ。そのため弾圧そのものは、子々孫々なくなりはしない。ただ相手が入れ替わるだけだ」との「明快な道理」を、「中華民族の偉大な復興」を解き明かすカギであると捉えてみたいのだが。

かりに習近平が現在の中国の持つ経済力と軍事力を「正義」と思い込んでいるとしたなら、「明快な道理」からして行き着く先はほぼ間違いなく「もう頭には報復しかなかった。寛容などは考えられない」ことになる。だから習近平の対外膨張・覇権路線の根底には19世紀初頭以来の2世紀に近い民族的怨念が込められている。さらに1958年に大躍進政策を掲げた毛沢東の見果てぬ夢――「超英�美」――が加味されていると考えれば、習近平の傲岸不遜な振る舞いが理解できる。夜郎自大もここまでくると、正直言ってマンガだが。

スターリン死後、東側世界の盟主を任じていた毛沢東は、「米ソ平和共存路線」に大きく舵を切るフルシチョフを徹底して見下していた雰囲気がアリアリ。それはそれでいいのだが、問題はフルシチョフの挑発に乗って「超英�美(世界第2位の経済大国であるイギリスを追い抜いて、第1位のアメリカに追い付き追い越す)」などと口走ってしまったことだ。

毛沢東は「超英�美」をスローガンに掲げ、食糧と鉄鋼を軸にした大増産運動に国民を駆り立てた。大躍進政策などと名前だけはリッパで勇ましいが、とどのつまり国民を飢餓地獄に突き込ませただけ。「超英�美」は最初から無謀極まる愚策だったのである。

それから60年余。今や経済的にはアメリカに肉薄するばかりか、数年後にはアメリカを追い抜く勢い・・・らしい。まさに習近平は毛沢東すら達成できなかった「�美」を実現させつつある。

かくて最近の習近平の思考回路が「もう頭には報復しかなかった。寛容などは考えられない」に明確に切り替わったと考えるなら、対症療法的な中国包囲の網で締め上げようとする方策は再考を要するのではないか。世界史を振り返ったうえで、「100年戦争」ならぬ「200年戦争」を想定すべき時期に立ち至っているように強く思う。

閑話休題。

第六劇場に通ううちに舞台に登場する老旦(おばあさん)の役柄に悪人がいない。いや、それどころか正義の体現者であり、一族の団結の要といった性格付けがされている点に大いなる戸惑いを覚えたものだ。それというのも、中国の家族関係においては家長・族長が家庭内、あるいは一族内では絶対的権威を振るい、女性は虐げられるが儘に忍従の人生を送ると、日本で教えられていたからである。

第六劇場で目にした「岳母刺字」「楊門女将」「四郎探母」「李逵探母」「拾黄金」「目蓮救母」などに登場する母親たちは、日本で学んだ中国の母親像とは余りにも違っていた。

たとえば「岳母刺字」である。目の前に跪かせた我が子の背中に自らの手で「尽忠愛国」の4文字を刻み、異民族との戦いに出征する息子の岳飛に「この期に及んで怯んでどうする。凜々しく、正々堂々と戦ってこい」とハッパを掛けるのは、母親である。ともかくもオッカサンは勁く、正しく、厳しく、そのうえに極め付きで雄々しいばかりだ。《QED》

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