――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港154)

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港154)
【知道中国 2272回】                       二一・九・初六

――英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港154)

最初の禁演措置のキッカケは1937年7月の盧溝橋事件だった。舞台の上の絵空事の世界であるはずが、日本に攻撃されているという現実に重ねられてしまったのである。

祖国が生存を賭けて強欲な敵と必死に戦っているにもかかわらず、敵国に敗れたうえに命惜しさに捕虜となってまで生き恥を晒す。あまつさえ敵国の王女と円満な家庭を築く。そればかりではない。敵地でノホホンと暮らしながら、15年が過ぎてやっと母親を思うなどは不忠不孝の極み。女々しすぎる。四郎は敵である日本側に協力し民族を売った漢奸の象徴的存在として仇敵視されてしまった。

かくして「四郎探母」は「民族意識を欠いた芝居」とされ、?介石政権によって禁演措置を食らったのである。たしかに四郎の振る舞いは、そう解釈できないわけではないものの、しょせんは芝居に過ぎないだろうに。

だが、彼らはそうは考えない。いや、そうは考えられない。やはり芝居小屋の内側の話ではなく、飽くまでも政治の問題であり、であればこそ断固として娯楽ではない。やはり芝居は思想宣伝の手段であり、芝居小屋は民衆教化の教室なのだ。

以上が国民党政権の対応である。

一方、共産党政権だが、見方によっては国民党と紙一重。当然のように思想宣伝の手段として捉えている。いや芝居を政治宣伝に使うのだは、こちらが本家だった。

延安時代の共産党は「内容に多く不健康部分がある」との理由で公演を禁じ、1949年初めに北平(北京)を制圧した直後、正式に禁演措置を講じている。「不健康部分」が漢族の元妻と異民族の現妻――2人の妻、つまり重婚を指すことは敢えて論ずるまでもない。つまり重婚は社会主義の倫理・道徳に反することになるからだ。

建国直後の1950年から52年にかけて、「社会主義道徳・科学思想に反する」という理由で伝統演目のうち霊魂・地獄・仇討ち・色恋沙汰・不倫などがテーマの26本を公演禁止にしている。「四郎探母」は26本から外れたが、京劇界は共産党政権の意向に応える形で、「プロレタリア階級の視点」からの改編を試みている。

たとえば某劇団は「民族の団結」を前面に押し出し、別の劇団は敵である異民族との間の和平交渉の末に相互不可侵条約を結ぶ形にまとめた。また硬軟双方の政治手法を駆使して異民族を信服させる筋立てに改めたり、15年ぶりにオメオメと戻ってきた息子を厳しく叱責し「叛徒」の罪に服させるなど。

だが、これら共産党政府の意向を組んで改編された「四郎探母」は元来からの筋運びに敵うわけはなく、芝居としてツマラナイから観客から受けなかった。

1956年、「百花斉放・百家争鳴」をスローガンに自由化運動が起こった際、26本の禁演演目を含め京劇上演に関する一切の制限が解かれた。そこで、56年9月には北京音楽堂で馬連良、譚富英、奚嘯伯、陳少霖、李和曽、尚小雲、蕭長華、馬富禄、李多奎、張君秋、呉素秋など、当時を代表する京劇役者を網羅して、オリジナルに近い形の「四郎探母」が上演されている。

やがて反右派闘争、大躍進、文革と京劇界が“奈落の底”に向かって突き進んでいったことを考えると、北京音楽堂での「四郎探母」こそ、中国における古典京劇が最後の輝きを放った一瞬だった。あれほどの舞台は、もはや望むべくもないだろう。

「百花斉放・百家争鳴」の結果、民主派知識人による強烈な共産党批判が起こるや、毛沢東は反右派闘争を展開する。1957年3月8日、文芸界との対話の席に臨んだ毛沢東は「四郎探母」を取り上げ「四郎は奸賊だろう」と語っているが、たった一言の「天に声」によって「四郎探母」の運命は定まった。もちろん問答無用の上演禁止である。《QED》

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