昨日(4月24日)、ご案内のように東京・千代田区内のアルカディア市ヶ谷において「宗像隆幸さんを偲ぶ会」が開催されました。
会場入口には「台北駐日経済文化代表処 大使 謝長廷」と書かれた立札が立つ生花が置かれ、会場には台湾をイメージして作曲されたピアノ曲「Formosa Verde」が静かに流れる中、たくさんの花とともに故宗像隆幸氏の大きなご遺影が掲げられ、参加者は献花をしてから席に着きました。
開会に先立って宗像氏に黙祷を奉げ、山田智美さん(台湾独立建国聯盟日本本部中央委員)の司会進行で進められました。
2021年末より就任の林建良委員長より開会の挨拶、王明理・前委員長より委員長交代の挨拶の後、来賓の蔡明耀・台北駐日経済文化代表処副代表、金美齢さん、櫻井よしこさん、趙中正・全日本台湾連合会会長、岡山文章・在日台湾同郷会会長、許世楷・元駐日台湾大使が次々と追悼の言葉を述べていきました。
次に、小池百合子・東京都知事からの懇篤な弔電が披露され、王明理さんが上映される「火線任務」について解説。
続いて、宗像氏が自ら精巧な割印を作ってパスポート写真を入れ替えて彭明敏氏を台湾から極秘裡に出国させることに成功した1970年1月3日の台湾脱出作戦などについて映像化した「火線任務」を上映しました。
その後も、小林正成・台湾独立建国聯盟日本本部顧問や手塚登志雄・台湾の政治犯を救う会、藤井厳喜・国際政治学者、連根藤・台湾独立建国聯盟日本本部顧問、アジア自由民主連帯協議会会長のペマ・ギャルポ氏、河崎眞澄・東京国際大学教授、翻訳家の島村泰治氏、ジャーナリストの野嶋剛氏ら8人の方々からの偲ぶ言葉が続きました。
それぞれに宗像氏とのさまざまな思い出が語られ、命を懸けて独立運動に挺身した宗像氏が屹立したようにも思われ、ご遺族の宗像瑞江夫人も感謝に堪えないという旨の挨拶をされました。
最後に、宗像氏とともに独立運動を闘った故黄昭堂・台湾独立建国聯盟主席の令息の黄正澄・台湾独立建国聯盟日本本部副会長による閉会挨拶で滞りなく偲ぶ会は結ばれました。
台湾独立建国聯盟日本本部のフェイスブックで当日の写真を掲載しています。また、昨夜遅く掲載された「自由時報」記事を「台湾の声」が邦訳して紹介しています。併せて下記にご紹介します。また、会場内に流れていたピアノ曲「Formosa Verde」はYouTubeにアップされていますので、これもご紹介します。
・台湾独立建国聯盟日本本部フェイスブック https://www.facebook.com/search/top?q=%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%BB%BA%E5%9B%BD%E8%81%AF%E7%9B%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E9%83%A8
—————————————————————————————–宗像隆幸さんを偲ぶ会の速報【台湾の声:2022年4月25日】
昨日の「宗像隆幸さんを偲ぶ会」にはたくさんの御列席をいただきありがとうございます。自由時報が詳しく報道していますので、まずは御紹介します。登壇していただいた方々にも台湾独立建国の理想は「ほぼ」完成したものの、最終的な目標が残っていることを語っていただきました。宗像隆幸さんは私たちの心の中に生きています。我々は中国に対抗するために台湾政府と協力しつつ、引き続き独立建国の志を貫きます。──台湾の声
【自由時報駐日特派員・林翠儀/東京24日、台湾の声編集部訳】
台湾の戒厳令期に「党外」が国民党の政治的迫害から逃れるのを、少なからぬ日本人が密かに支援した。2020年7月6日に84歳で死去した宗像隆幸氏もその一人である。氏は長年にわたり台湾独立建国運動に尽力し、1970年に彭明敏教授が台湾から脱出するのを助けたキーパーソンだ。台湾独立建国聯盟(台独聯盟)日本本部は本24日、東京で宗像氏を偲ぶ会を行った。また今月初めに亡くなった彭明敏教授にも哀悼の意を表明した。台独聯盟日本本部の林建良委員長は、武漢コロナウイルスの影響で、偲ぶ会開催に2年が経ってしまったが、奇しくも台湾では、同じ日に彭明敏教授を偲ぶ会が行われており、2人の台湾の民主化のリーダーの不思議な運命を改めて感じたと述べた。
1936年に鹿児島に生まれ、1961年に明治大学を卒業し、日本人ではあったが、日本で台独聯盟に加わり、中核的な役割を担った。宗像氏の人生に影響を与えたキーパーソンである元駐日代表の許世楷は、本日の偲ぶ会で知られざるエピソードを紹介した。
許氏によれば、1959年末に東大に留学した際、たまたま宗像氏と同じ学生寮に住んでいた。当時、日本は安保闘争が激しく、宗像氏に台湾の現状について話したところ、自由と民主を愛する宗像氏と親友になった。1961年頃、許氏は、台独聯盟のリーダー王育徳が創刊した雑誌『台湾青年』の編集者として宗像氏を招いた。王氏は、宗像氏の誕生日が9月9日(重陽節)であることから「宋重陽」というペンネームをつけた。それ以来、2002年に第500号で停刊するまで宗像氏は『台湾青年』の編集長を務めた。
許氏によれば、宗像氏はとても責任感があり、酒が好きであったが、彭明敏教授を台湾から脱出させる「X計画」の執行にあたっては、何ヶ月も酒を一滴も口にしなかった。宗像氏は彭明敏教授に偽造したパスポートを持たせ、日本人として台湾から脱出させることを計画した。パスポートの刻印は、非常に精密であるが、業者に頼むわけにもいかない。自分で作るしかないが、酒のせいで、精密な作業ができなくなることを恐れて、何ヶ月ものあいだ一滴も飲まなかったというわけだ。
彭教授の台湾脱出を支援するまでは、宗像氏と彭教授は一面識もなかった。宗像氏は「X計画」の成功の確率は5割しかないと見ていた。計画が失敗すれば、彭教授は国民党に暗殺される可能性もあり、宗像氏自身にも害が及ぶかもしれなかった。しかし、このお互いに会ったことのない2人は互いを信じた。脱出成功の1年余りあと、1971年5月に宗像氏と彭教授は米国で初めて対面した。2019年12月宗像氏は美麗島事件40周年イベントに出席するために訪台し、彭教授に会ったがこれが2人の最後の会合となった。
林建良氏は、日台関係に大きな影響を与えたもう一つの重要な出来事を明らかにした。1998年11月の江沢民訪日に関わる出来事である。1998年6月、クリントン米大統領が中国を訪問した際、上海で「3つのノー」政策を発表した。「米国は台湾の独立を支持せず、“一つの中国と一つの台湾(中国と台湾とは別の国)”を支持せず、主権国家からなる国際機関に台湾が加わることを支持せず」というもので、当時、台湾は大きな衝撃を受けた。
江沢民は同年11月の訪日に先立ち、クリントンが発表した「3つのノー」政策同様の内容を、日中首脳の共同声明に盛り込むよう日本に要請した。当時、宗像氏が動いて、小渕恵三首相のアドバイザーである末次一郎氏を訪台させ李登輝総統との会談を実現した。これによって日本が中国側の要求に従うのを阻止することができた。これによって小渕首相は外国メディアから中国の圧力に屈しないとの評価を得た。
台独聯盟日本本部が本日開催した宗像氏を偲ぶ会には、約300人余りが出席したが、その中には長年にわたり台湾民主化運動を心に留めて支援した日本人も少なくなかった。謝聡敏氏の台湾の政治犯リスト持ち出した小林正成氏や、「台湾の政治犯を救う会」の手塚登志雄氏などである。宗像氏をよく知る元国策顧問の金美齢氏、日本の著名な政治評論家である櫻井よしこ氏、全日本台湾連合会の趙中正会長、在日台湾同郷会の岡山文章会長、国際政治アナリストの藤井厳喜氏、『李登輝秘録』著者・河崎真澄氏、台独聯盟日本本部の王明理・委員長代行らが、宗像氏を偲び、蔡明耀副代表も出席して追悼を表明した。
金美齢氏は、宗像氏は豪快な人物で、「宗像伯爵」と呼んでいた。普通のサラリーマン向きの性格ではなく、貴族のような心を持っていた。台湾民主化に参加したことによってその人生が輝いた。「よくやった」と声を掛けたい。
宗像氏の妻、瑞江夫人も出席し、感謝の言葉を述べた。宗像氏の熱意が、周囲の人を動かし、幸運にもいくつかの仕事のお手伝いをすることがでた。そのなかで、日本がある面で危機感を欠いていることがわかったという。
櫻井よしこ氏は、宗像氏が台湾民主化運動に生涯をささげたことは、もっと多くの日本人に知られるべきであるとした。日本と台湾は運命共同体であり、日本と台湾は絶対に中国の手に落ちてはならない。今が正念場だ、と語った。
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