【nippon.com:2021年12月30日】https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01232/
◆大分の漁師から学んだ突きん棒漁法
愛媛県三瓶町は宇和海に面し、山が海まで迫っていて平地は少ない。漁業が盛んで、帆をかけ、風の力で船を横方向に移動させながら網を引く打瀬(うたせ)船を操り、玄界灘や朝鮮半島まで出掛ける船もあった。1902年に同町の漁師、濱田愛太郎は5人乗りの「住吉丸」で長崎県対馬沖で漁をしていた。この時、大分県の漁師が行っているカジキの突きん棒漁法を知り、乗組員らと共に漁法を習得した。
知人から「台湾近海には良い漁場がある」と教えられ、1924年2月、濱田は「住吉丸」で台湾の玄関港である基隆を、乗組員10人で目指した。船はトカラ列島や沖縄を経由しながら25日間かけて基隆に到着。その後、当時の台北州宜蘭県蘇澳郡の南方澳漁港に入った。漁港は台湾総督府が2年の歳月をかけて前の年に竣工(しゅんこう)していたが、ほとんど使われていない状態だった。
船を横付けできる便利な港で、漁場も近く大漁が続いた。半年後の秋になると大金を手にして、三瓶町に帰港することができた。台湾での大漁話で地域は沸き返り、台湾への出漁を熱望する漁船が続出。同年9月に再び、住吉丸を含めて6隻が出港した。
◆好漁場の台湾東海岸
台湾本島は九州より少し小さく、海岸線の長さは3分の1しかない。入り江が少なく天然の良港が少ないのである。しかも、台湾の東海岸はフィリピン海プレートが花蓮港あたりに潜り込んでいるため、西海岸と違って水深が100メートル以上もあり、港を造るのに適した場所はない。ところが、蘇澳には東海岸には珍しく風波をしのげる湾がある。沖を流れる黒潮に乗って北上するカツオ、マグロやカジキなど豊富な魚種が獲れる好漁場で、総督府が漁港を整備していたが「宝の持ち腐れ」のように放置されていた。しかししばらくして、総督府は魚市場や貯氷処、給水設備や灯台などを設置し、漁業移民が定住できるように進めた。
三瓶町二木生村の漁師が半年近い操業を終え、予定通りに3月末に帰港準備をしていると、驚く話を耳にする。「家族と定住しない漁船は、南方澳漁港を使っての操業はできなくなる」というのである。さらに「今年中に移民の勧誘があり、その移民用の住宅が造られている」ともいう。
◆台湾の漁業移民の勧誘に応じる
1926年7月、台北州の水産技師・宮上亀七は漁業移民の勧誘と選考のため、四国を訪問した。最終的に、愛媛県18戸、高知県6戸、長崎県4戸、大分県1戸の計29戸の移住が決まった。移民は7戸が漁船で直接蘇澳へ、11戸が内台航路を利用した。当時の内台航路は8から9000トンクラスの客船で、神戸-門司-基隆間を3泊4日で運航していた。
1927年の晩秋、蘇澳移民が四国を出発する。南方澳に着くと、総督府が建築した1棟2戸建10坪の宿舎が用意されていた。この移住の様子は、12月11日の台湾日日新報に掲載されている。
「蘇澳郡南方澳漁港における前年度移民は30戸の予定であったが此内愛媛県より来る11戸40余名に対し11月28日付けで移民の居住が正式に許可された」
南方澳漁港にはカツオ船2隻、カジキ突きん棒船9隻、それにはえ縄船7隻、ひき縄船14隻が集まり、さらに台北州からの貸与船が4隻あった。内地から乗ってきた持ち船は27隻であった。
◆台湾で広がった突きん棒漁法「ハイオ漁」
高知と愛媛の漁師が同じ移民住宅に住み、同じ港を利用したが、もめ事は起きなかった。愛媛は「ハイオ(カジキ)」だけ取るのに対し、高知はカツオやサバなど複数の魚種を対象とした。従って漁法も違えば船の大きさも違った。
カジキには最も大きくて美味なメカジキの他、マカジキ、サンマカジキなどがある。メカジキは1.5から3.5メートル、重さ50〜250キロにもなり、小さいサンマカジキで1〜1.5メートル、15〜40キロもある。マカジキは風が吹くと水面に出てくるが、凪(なぎ)では出てこない。一方、メカジキは凪の時に出てくる習性がある。その習性を知って行うのが突きん棒漁法である。この漁法は海面近くを泳ぐカジキに、ロープの付いた3〜5メールの突きん棒を(銛=モリ)投げて捕獲する漁である。三瓶の漁師はこの漁法を「羽魚突漁」と書いて「ハイオ漁」と言った。
南方澳漁港から東へ1時間ほど走ると、黒潮の流れる漁場に着く。突きん棒船の見張り台からカジキが浮き上がってくるのをじっと待つことになる。揺れる船首の突き台で突きん棒を構えて、浮き上がったカジキに向けて放つのである。
突き台には突き役の3人と通称二番と呼ばれる操縦席に操船を伝える係の4人が立つことになっていた。突き役の3人のうちオモカジと呼ばれる船頭が中央に、トリカジと呼ばれる二番手が左に、見習いの三番モリと呼ばれる突き役は右に陣取ることになっていた。2から3メートルも上下する船首の突き台に立ち、重い突きん棒を持っての作業は重労働であった。漁獲高は突き役の目の良さと腕前やわざによって決まった。一人前に棒を操るには数年の経験が必要であり、漁はいつも命がけだった。しかし、船を出すたびに大漁が続き、疲れも吹っ飛ぶほどたくさん取れた。
◆台湾人にも伝わった漁法
移民して半年もしないうちに突きん棒漁は黄金期を迎えた。カジキ漁は10月から3月の漁繁期の半年だけ行い、夏場の漁閑期には、基隆に出稼ぎに行く者や愛媛に帰り農作業をする者もいた。他県の漁師は「半年で1年を稼ぐハイオ漁」とうらやましがった。
魚市場は捕れたカジキの55%は台湾用に45%は内地に送ると決めていた。内地用は、内臓を出して氷詰めにして送ると高値で売れた。そのため突きん棒漁師は収入が多く、新たに土地を購入して立派な家を建てるなど、豊かな生活する者が多くいた。
1935年ごろなると、漁師らは豊富な資金で40〜50馬力の大型船を次々建造し、16隻もの大型漁船が南方澳漁港に集まった。人手が足りないと台湾人を雇い、突きん棒漁の技術を教え漁を続けた。技術を身に付けた台湾人は重宝され、船長だけが日本人で乗組員は全員が台湾人という船もいた。さらには自船で漁に出て財をなす台湾人も現れた。
総督府による港湾や道路へのインフラ整備と相まって利便性が増し、1931年末の調査では、南方澳に定住する人は、移住漁師の他に台湾人や沖縄人も住み着くようになった。人口は308戸1164人に膨れ上がり、基隆に次ぐ漁業の街として栄えた。
◆戦争と終戦で状況は一変
だが、1941年に太平洋戦争が始まると、台湾での生活に見切りを付け、財産を処分して故郷へ帰る家族もいた。南方澳に残った者は細々と漁をして食いつないでいたが、1945年8月の終戦により状況は一変した。
日本人の引き揚げが1946年4月から強制的に始まった。1人が持参できるのはリュックサック2個と1000円それに帰国中の食料だけであり、家も船も他の財産も接収された。引き揚げ前に漁船や財産などを使用人だった台湾人や沖縄人に譲る者もいた。台湾人にとって幸運だったのは、漁業移民が残した漁船や漁具以上に、突きん棒漁をはじめ一本釣り漁、はえ縄漁、ひき縄漁などの近代的漁法を伝えられていたことであった。
漁を引き継いだ台湾人は、接収された船を手に入れ蘇澳沖での漁をするようになる。さらに、収入が増えると新造船を手に入れ、遠く東シナ海の尖閣諸島付近まで出掛ける漁師まで現れるようになった。
戦後も三瓶町で突きん棒漁を続けていた濱口和也氏は、久米島を基地にして尖閣諸島付近まで出掛けていた。その際に台湾の漁師と知り合いになり、親切にしてもらったと語っている。
蘇澳から故郷に帰ってみると、先に引き揚げた仲間や地元民が、手を差し伸べ助けてくれた。そして資金を出し合って突きん棒船を建造し、「ハイオ漁」を再開した。やがて担い手の高齢化によって三瓶町における「ハイオ漁」の歴史は幕を閉じる。今はただ1928年に建立された「羽魚突紀年碑」だけが残るのみである。筆者は三瓶町を訪問し、台湾に移民していた町民の子孫らと会ったが、8歳まで南方澳で暮らしたという方もいた。彼らは今、みかん栽培や魚の養殖などで生計を立てている。
◆台湾有数の漁港に育った蘇澳港
南方澳に漁業移民が残した漁船や漁具の漁業資産や突きん棒漁、はえ縄漁などの技術は台湾人に引き継がれ、その後も繁栄を続けた。
かつて漁獲高がゼロに近かった宜蘭県蘇澳地区は、現在、台湾第2位の漁港になっている。その遠因は愛媛県や高知県の漁業移民が残した近代漁法が受け継がれ実を結んだ結果であろう。戦前の「漁業移民」は台湾に漁業振興という恩恵をもたらした。
現在の蘇澳は1万4000戸、人口4万人を超える漁業の街として成長し、発展を続けている。その陰には、移住し蘇澳港の発展に貢献してきた名もなき四国の漁業移民がいたことを忘れないでほしい。
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