ドキュメンタリー映画「塩月桃甫」が4月28日に故郷の宮崎県西都市で公開

 4月28日、宮崎県西都(さいと)市出身の塩月桃甫(しおつき・とうほ)を描いたドキュメンタリー映画「塩月桃甫」が故郷の西都市民会館で公開される。

 塩月桃甫は石川欽一郎(いしかわ・きんいちろう)とともに台湾美術振興に大きく貢献した画家だった。台湾美術研究家の森美根子(もり・みねこ)氏は、石川や塩月など21人を取り上げた『台湾を描いた画家たち』(産経新聞出版、2010年10月刊)で「今日の台湾美術の基盤は、その揺籃期に、台湾美術展覧会の創設に携わり16年間審査委員を務めた塩月桃甫の業績を抜きにして語れるものではない」と評している。

 だが、「蕃人舞踊団」(宮内庁所蔵)や「舞妓」(県立美術館所蔵)などの優れた作品を残している塩月は、石川ほどには知られていない。戦後すぐ台湾を追われたからだ。故郷の宮崎に引き揚げた塩月は、絵の具も買えないほど逼迫した生活を送り、2年後には長男で小説家だった塩月赳を失うという不幸に見舞われたものの、画業を続けて宮崎美術界に大きな足跡を残し、1954年に亡くなる。

 この塩月桃甫の足跡を追ったのが、この映画を監督した宮崎県延岡市出身のアーティスト小松孝英(こまつ・たかひで)氏だった。4月28日と29日、西都市民会館で公開される。いまのところ、公開は宮崎県内だけのようだが、ぜひ東京をはじめ日本各地で上映していただきたいものだ。

 なお、塩月が台湾を追われたのは「台展での台湾人審査委員はずし」が要因だったという説について、森美根子氏は先の著書において「彼の頭の中には台湾人を排斥する企てなど微塵もなかったと思われる」と、説得力に富む根拠を挙げて反駁している。

 別途、森美根子氏の著書などを参考に書かれた塩月桃甫のプロフィールをご紹介したい。

◆ドキュメンタリー映画「塩月桃甫」公式サイト https://shiotsukitoho.com/

◆ドキュメンタリー映画「塩月桃甫」PV(3分) https://shiotsukitoho.com/

◆さいと塩月桃甫顕彰会事務局:0983-43-3438

—————————————————————————————–100年前の激動の時代に台湾に渡った日本人画家が求めた自由とは? 映画『塩月桃甫』【TOKYO HEADLINE:2021年4月6日】https://www.tokyoheadline.com/542654/2/

 100年前、台湾に渡り台湾美術界に多大なる貢献をした宮崎出身の画家・塩月桃甫(しおつきとうほ)。彼の生涯を描いたドキュメンタリー映画『塩月桃甫』が、彼の出身地である宮崎県西都市で4月28日に公開される。

 同作の監督を務めたのは、宮崎県延岡市出身のアーティスト小松孝英氏。彼は10年前より台湾の国際アートフェアに多数出品するなどしており、現地で塩月の名を聞く機会も多かった。そんなある時、宮崎県児湯郡の骨董屋で塩月桃甫の描いた台湾原住民族(先住民)の油絵と出会い関心を持つようになる。しかし、調べて行くうちに台湾での知名度、貢献度とは対照的に日本ではほとんど知られていない現実を知り、彼の功績や生き様を広めるべく映画製作を決意するに至った。

 大正10年(1921年)の台湾は、大戦前の日本統治時代。塩月桃甫は、日本政府側の教育者として台湾に渡り、台湾原住民族やその文化に魅せられていくが日本は同化政策、さらには戦争へと突き進んでいく……。激動する時代と矛盾していく自身の環境の中、塩月はどのような事を思い、どのように表現していったのか。小松監督は、この約一世紀前の同郷の画家を追いかけるにつれ、アーティストにとっての「自由」とは何か考えさせられていく。

 塩月桃甫の息子・小説家の塩月赳(太宰治の親友であり「佳日」のモデル)や、塩月と深く関わった芥川賞候補の小説家・中村地平(宮崎太陽銀行の前身・宮崎相互銀行社長/太宰治の「喝采」のモデル)、三尾良次郎(台湾から引き揚げ後、初代日向市長)など塩月桃甫を取り巻く人物も興味深い。

 塩月桃甫が台湾に渡った100年目の節目に、本作が上映される意味を感じたい。

 上映会は4月28日16時30分開場で西都市民会館にて行われる。

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