5月8日が来ると思い出す情景がある。35年前の1983年、台湾・台南市にある烏山頭ダムの近くで行われた「八田與一慰霊追悼式」。海外派遣教員として高雄日本人学校に勤務して3年目を迎えていた私は、台南駅で嘉南農田水利会の呉徳山氏と黄粲翔氏に迎えられ式典に参加した。技師だった八田の銅像前には供物が並べられ、3人の尼僧が来ていた。総勢40人あまりが参加した式典が終わると、参加者らは片付けをしながら話し始めた。
「八田さんが生きていたら、96歳やな」と流ちょうな日本語が聞こえる。
「八田さんが工事をしなかったら、米ができる土地にはならなんだ。大恩人や」八田の話で会話が広がる。
「いや、大恩人というより神様や。神様と思っている人間が、嘉南には多い」と言う。
私が「日本人のためにこんな式典をしていただいてありがとうございます」と頭を下げると、「違う違う、八田さんは亡くなって台湾人になったのです。お礼をいうのは私たちの方ですよ。この式典に参加いただいた日本人は戦後ではあなたが最初です。来ていただいてありがとうございます」と言われた。
嘉南の農民から神のように慕われ、命日が来る度に欠かさず墓前追悼式が執り行われる八田とはどのような人物なのか。そして台湾で何をしたのか。行動記録や彼にまつわる秘話を数回に分けて紹介したい。
◆度量の大きさは子どもの頃から
八田は1886年、石川県河北郡今町村で生まれた。姉1人、兄4人の末っ子だった。父の四郎兵衛は約15ヘクタールの田畑を持ち、豪農として村人からの信望が厚かった。八田は四郎兵衛が50歳を超えて生まれた子供で、末っ子ということもあって、特にかわいがられた。八田はそれをいいことにガキ大将に育ってゆく。庭の木の上から「おーい」と叫ぶと、近所の子供が集まってきて「よいっちゃん、今日は何するのや」という具合である。
花園尋常小学校、森本高等小学校、金沢第一中学校を卒業すると、金沢市の第四高等学校に入学し、日本を代表する哲学者の西田幾多郎に学んでいる。四高での成績は80点前後、中の上で秀才ではなく努力の人といった方が近い。
数学が得意だった八田は、土木の道に進むべく東京帝国大学土木工学科に入学する。ここでその後の人生に大きく影響する恩師と出会う。広井勇である。札幌農学校2期生で新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾、南鷹次郎らと同期だった。欧米へ自費で6年間留学後に帰国。27歳で札幌農学校助教授、30歳で小樽築港所長を拝命、35歳で小樽北防波堤を設計・施工した偉大な技師だ。37歳で東京帝大教授に抜てきされ、多くの優秀な若者を育て世に送り出した。「広井がいなければ、日本の近代土木は50年の後れをとった」と言われるほどの偉大な教育者でもあった。
学生の八田は言うことが大きく「大風呂敷の八田」というあだ名が付いていたが、その大風呂敷に教授の広井は目を細めて見守った。「八田に内地は狭すぎる。内地にいれば、狭量な役人に疎んじられる。八田の風呂敷は外地でこそ生かされる」と言って、台湾行きを勧めたのも広井だった。
◆最年少で「桃園[土卑]圳」の大かんがい工事を担当する
八田は土木の新天地・台湾行きを迷うことなく決め、卒業した翌月の1910年8月に渡台した。24歳のときである。赴任したのは台湾総督府土木部工務課で、技術職では14人の技師と八田を含め31人の技手がいた。技師の中には浜野弥四郎、川上浩二郎、十川嘉太郎、清水一徳、堀見末子、国広長重、大越大蔵ら帝大の先輩が多忙な生活を送っていた。
赴任して4年目には技師に昇進し、衛生工事担当になった。14年、「台南上水道新設工事」が、浜野の設計で実施されることになり、八田もこれに加わった。工事は、曽文渓を水源に「山上」に水源地と浄水場を設け、人口3万人の台南市に、10万人分の飲料水を供給する画期的な近代工事だった。10年近い期間を要し、22年に完工する。この工事に関わったことは、八田にとって有益だった。浜野の仕事に対する考え方や生きざまに感銘を受けただけでなく、仕事の進め方や作業員の配置、それに曽文渓を中心とした地形にも詳しくなった。
工事に携わって2年が経過した年に人事異動があり、土木課長には技師の山形要助が、八田はかんがい担当に異動した。後ろ髪を引かれる思いで浜野と別れ、台南を去った。
その頃、水不足に悩む北部の桃園台地に[土卑]圳(ひしゅう)を構築する計画が総督府内で浮上した。桃園台地には「[土卑][土唐](ひとう)」と称する貯水池が数千を数え、農民の貴重な糧になっていた。しかし、水が不足すると「[土卑][土唐]」が干上がって生産体系が崩れ、住民の生活を脅かす。それを恐れた総督府は、桃園台地に2万2000ヘクタールの優良な水田を得る目的でそれぞれの[土卑][土唐]をつなげるかんがい計画を立案、土木局の官費官営工事として実施することにした。
「桃園[土卑]圳」と名付けられたかんがい工事は土木課が担当することになり、山形は工事を最年少技師の八田に任せることにして、呼び戻した。
八田は事前調査と測量を行い、これを基に技手の狩野三郎を中心とする若手技術者が設計と施工を担当した。基本設計は淡水河の支流、大漢溪上流の石門峽、現在の石門ダムの左岸に取水口を設け、約25キロの導水路を造り、導水路の途中に貯水池を設け、ここから幹線、支線、分線の給水路を通して、河川の水と雨水を利用してかんがいするというもので、石門取水によるため池かんがい方式を取った。
当然、それまでに造られていた数多くの埤塘も利用した。ため池の堤高を高くして貯水量を増やし、埤と埤をつなげるための水路、圳を設けた。大きなダムを造らず、大小のため池を活用して、貯水量を増やす画期的な工事は、世界的にも例を見ない方法だった。16年11月に着工し、総事業費約770万4000円を費やして、8年後の24年に完工した。
94年たった今日でも桃園台地を潤し、そこに住む人々に多くの恩恵を与え続けている。
◆ダムに適した土地を探せ
桃園[土卑]圳の工事を指揮して2年あまりが経過し、山形に呼び出された八田は、水力発電用ダムと米の増産用かんがいダムの適地を探す依頼を受けた。
山形が高雄港湾課長のとき、高雄を一大工業地帯に、港を世界貿易港にすべきとの持論があった。実際、急激に工業化が進み電力不足が現実となっていた。しかし、かんがい用ダムの建設は事情が違った。日本では米不足が深刻で、インディカ米を南京米と称して輸入に頼っていた。1918年には米騒動が起き、食糧増産が急務となっていた。台湾を食料供給地と捉えていた政府は、総督府に対して米の増産を要請してきたのだ。
山形の要請を受けた若き技師が適地探しのために台湾全島を調査した。熱帯独特の気候や道なき道の踏破に苦しみながらも、水力発電用のダムの適地は、技師の国広により発見された。台湾中部の湖、日月譚である。
工事は台湾電力を設立し、技師長の堀見の指導・監督の下で19年に着工した。一方かんがい用ダムの適地は、嘉義庁長の相賀照郷の要請から始まった。相賀は「桃園[土卑]圳のようなかんがい施設を嘉義にも造ってほしい」と山形に繰り返し求めたため、2週間の期限付きで八田が調査することになった。相賀は非常に喜び、支庁長や外勤警部補を案内役に14カ所の適地を調査した。
◆不毛の地を緑野に変えろ
八田は、嘉南平原の調査で広大な土地が不毛の地として放置されているのを目の当たりにした。さらに日々の飲料水にも事欠く農民の生活環境にもがくぜんとした。貯水池が造れる場所は曽文渓の支流、官田渓だけだったことも分かった。八田はここに水路を引けば、台湾最大の緑野に変わるはずだと考えた。
総督府に帰任した八田は、基本計画を作り、山形に提出した。「官田渓埤圳工事計画」である。書類に目を通し終えた山形は一言、「ばか」と叫んだ。「2万2000(ヘクタール)の桃園[土卑][土川]だけでも大変なのに、7万5000のかんがいだと、大風呂敷を広げやがって……」
山形が落ち着くのを見定めて、八田は説明を始めた。聞き終えた山形は、納得したのか「下村(宏)長官に上げてみる」と言った。数日後、下村に呼ばれ「米の増産とサトウキビの増産をするためのかんがい施設を考えてくれ」と要請を受けた。
八田はサトウキビ12万トンの増産のため、かんがい面積を15万ヘクタールに拡張した。新たな水源には台湾最大の濁水渓からの取水を考えて計画書を作り提出した。下村は日月譚水力発電計画と官田渓埤圳計画の二つを国会に提出した。その結果、電力会社案には予算が付いたが、かんがい計画案は調査不十分という理由で、再度調査して提出することになった。
4万5000円の調査費が付いたため、各班長に阿部貞寿、齋藤己代治、佐藤龍橋、小田省三、磯田謙雄を指名し総勢60人の作業員と共に嘉義高砂ホテルに陣取り、不眠不休で半年間調査に没頭した。調査は測量に始まり、烏山頭ダムや給排水路の支線、分線まで行い、設計図と共に予算書を作成して再度国会に提出された。(続く)