【傳田晴久の台湾通信】「陳樹菊さんのおはなし」

【傳田晴久の台湾通信】「陳樹菊さんのおはなし」

                   傳田晴久

1. はじめに

先月初め(4月6日)の「自由時報」紙に「善心菜販陳樹菊退休養病」(親切な野菜売りの陳樹菊さん、退職し、療養生活に)という大きな見出しの記事が載っていました。陳樹菊さんについては昔、台湾通信No.48「慈善それとも偽善」(2011.2.6)で紹介させていただきました。もちろん陳樹菊さんは大変有名な慈善家ですが、このときは大陸の陳光標というちょっと怪しい慈善家気取りの人の紹介が主でしたので、陳樹菊さんについてはあまり触れませんでした。今回は詳しく紹介させていただきます。

2. 陳樹菊さんとは?

台湾通信No.48では、陳樹菊さんについて、「台東の野菜売り50年の陳樹菊オバサンは、どこぞの「札束積上げショウ」(陳光標のこと)の対極で、毎日の売り上げから1元、2元と貯め始め、100万元になると貧しい人や学習する人を救済し、已に1000万元を越えている。彼女は目立つ事を嫌い、メディアの訪問も断っているが、去年(2010年5月)『世界で最も影響力ある100人』に選ばれた。」と紹介しました。

维基百科(ウィキペディア)によりますと、陳樹菊さんは1951年雲林県の生まれと言いますから、今年67歳ですが、今迄の人生はいろいろ大変だったようです。7歳の時、台東県に移り住んだが、小学校卒業後母親が難産で病院へ行く途中、母子ともに亡くなりましたが、病院に支払う保証金を集めるのに苦労したと言います。その後、7人家族を養うために学校を中退、父親の八百屋で働き始めた。18歳の頃、三弟が重病(流感)で亡くなりましたが、この時仁愛国小の人々が入院治療のための募金をしてくれました。その後、二弟も交通事故で亡くなったそうです。この時、こうした辛い悲しい経験を通して、色々な方の善意を受け、将来その善意に応えたいと思うようになりました。

3. 彼女の献金活動の数々

1993年父親が病死した後、建設計画中の仏光学院に100万元(約370万円)を寄付しました。
1997年仁愛国小に設立された「急難救助奨学金」の為に100万元を寄付し、数年前に受けた援助にお返ししました。

2005年母校仁愛国小の図書館建設の為に450万元(約1650万円)の寄付をしました。また、当地の「阿尼色弗子供の家」の孤児3人を養子として引き受け、100万元を寄付し、さらに毎年3万6千元(13万円)を定期的に寄付することにしました。
また、彼女はかつて1000万元(3700万円)を目標に預金し、困窮者の基本生活を支援するための「基金会」を設立すると表明しました。

4. そんな余裕はどこにあったのか?

過去20数年間に寄付した金額は1000万元を超えていますが、いったいどこにそんな余裕があったのでしょうか。2014年にBBC(英国放送協会)がインタビューしていますが、彼女の簡素なライフスタイルにその答えがあるとしています。彼女は仏教徒で、慎み深い菜食主義者で、毎日の食事はご飯と麺筋(生麩の加工品)で済ませていました。ある新聞記事では、彼女は大変な倹約家で、普段の食事は豆腐をおかずにした醤油の混ぜご飯で、最も贅沢な食事は市販の弁当だと言います。その弁当も昼食時に半分、残りを夕食にすると言います。
彼女の金銭哲学はBBCのインタビューに答えて、「寄付はいくら稼いでいるかに関係なく、お金をどのように使っているかに関係します」「お金はそれほど重要なものとは思いません。お金を持って生まれてくるはずもなし、死んで持って行けるものでもありません」

5. 「数多くの表彰」

陳樹菊さんは2010年、米国の雑誌「タイム」が毎年選ぶ「世界で最も影響力のある100人」に選ばれましたが、同時に、フォーブスアジア誌の「48人の慈善活動の英雄」にも選ばれました。更にリーダーズダイジェストは第4回アジアヒーロー賞を授与、台湾の教育部長(文部科学大臣に相当)はファーストクラスの教育文化メダルを授与しました。そして2012年、フィリピンのアキノ大統領はアジアのノーベル賞と言われる「マグサイサイ賞」を彼女に授与しました。この賞はフィリピンの大統領ラモン・マグサイサイ(1907-1957)を記念して1957年に創設された賞で、アジア地域で社会貢献などに傑出した功績を果たした個人や団体に対して贈られますが、日本人でも受賞した人は、黒沢明、川喜田二郎、緒方貞子など多数おられます。
驚いたことに、陳樹菊さんは頂いた賞金50,000米ドル(約540万円)を台東馬偕病院に全額寄付されました。

6. 何故退職を
2018年4月6日の自由時報にその経緯が記されていました。彼女は毎朝午前3時には店を開き、他の店が閉まった後も夜の10時まで野菜を売っていた、それも年中無休であった。今年の1月15日、店頭で倒れ、救急車で病院に運ばれたが、盲腸炎をこじらせており、ひどい状態であった。しかし、手術の結果一命を取り留めることが出来た。退院後、再び店を開こうとしたが、みんなに止められた。退院後、健康は回復して来たが、市場での永年にわたる重労働がたたり、脊椎を痛めており、一時は歩行も困難であった。彼女は店を続けることをあきらめ、店の経営を甥っ子に譲ることにした。

7. 彼女の希望

彼女は子供の頃、母親と弟が医者にかかるお金がなく命を失ったのを見ており、その時以来、貧しい人が医者にかかれるよう助けたいと願ってきたが、今やそれを実現する時ですと語っています。
台湾は現在、健康保険制度がありますが、それでも多くの弱者の中には100元(約360円)の「掛號費」(初診料)を払えない人がいます。彼女の望みは、基金会を設立し、病院に行きたくても行けない人々が容易に行けるようにすることです。

8. 「えにしの会」

陳樹菊さん物語の構想を練っているとき、たまたま自由時報の「自由広場」(読者投稿欄)に、「台湾にも“えにしの会”が必要だ」という投稿が目につきました。中文の中の赤いひらがなの文字が目立ったのです。国立台北大学名誉教授の孫炳焱氏はNHKの報道番組(78歳の癌患者が入院・手術の保証人がいないので困っていたが、“えにしの会”の代理保証人のお蔭で無事手術を受けられた)を引用して、台湾も高齢化社会に入っており、日本の社会問題は台湾の明日の問題になる可能性が高いので、出来るだけ早く対処する必要があると訴えておられます。数日後の同欄に、別な教授が賛成意見を投稿され、「自分が米国に留学しているときに息子が突然病気になり、高額な手術の金に困ったが、医師や病院付属の慈善団体のお蔭で助かった」とのことでした。

念のため、「えにしの会」のHPを見ますと、「引越しや入院時などに必要な保証人となる身元保証支援、日常の暮らしの生活支援から万一のための支援、そしてお亡くなりになった後の葬儀及び納骨支援までのサポートを行う」ことを目的としているとのことです。
私は台湾、日本で数回緊急入院したことがありましたが、お蔭様で何れも友人や身内が保証人になって下さり、事なきを得ました。もし、あのとき保証人になって下さる方が居られなかったらと考えるとぞっといたします。

9. おわりに

2016年2月、「保育園落ちた 日本死ね!!!」とツィートした人があり、話題を呼び、その年の流行語トップ10に選ばれました。発言に同感する人、同感しない人の意見を読んでいたら次のような一文がありました。「正義に酔って他責的主張を叫ぶより、問題解決のため自分にできることをした方が建設的では。」

陳樹菊さんは大変つらい人生を送って来られたようですが、その間に受けた多くの人々の善意に感謝し、自分にできることを数十年にわたって続けてこられました。残りの人生で、「基金会」を作り、困った人々の役に立ちたいということですが、「えにしの会」は一つのモデルでしょうか。


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