【独立運動に投身した台湾人】王育徳伝(八)

【独立運動に投身した台湾人】王育徳伝(八)

国民新聞より転載

王明理 台湾独立建国聯盟 日本本部 委員長 

台湾語の問題の一つは表記方法が一つに定まっておらず、またあまり人口に膾炙していないことであった。将来、台湾が独立した時、当然国語は母語台湾語にするべきだし、その時に国民共通の表記法がないのは困ると考えた王は、王式表記法を考案した。これは、宣教師の考案した教会ローマ字の欠点を改良したものであった。しかし、のちに、王は自分の発明を捨て、教会ローマ字を採った。すでにある程度利用されている教会ローマ字のほうが、台湾人にとって実用性があると考えたからである。学者としての業績より、使用する人の利便性を優先したのである。

王が正式な政治亡命を認められたのは一九五四であった。これを書いている私が生まれることになったために、正式な戸籍が必要になり、不法滞在であることを警視庁に自首したのである。台北高校の先輩有馬元治氏(のちの国会議員)と東大の教授たちが保証人になってくれたので、収監されることもなく、裁判もなく、一年後特別在留許可が降りた。
 
博士課程を卒業する前に、明治大学講師になり、以後、東京外国語大学東京大学、埼玉大学などでも講師を務め、のちに明治大学主任教授になった。これが二十五歳でゼロから出発した王育徳の日本での社会的信用となった。授業が厳しいと有名であったが、学生達に慕われ、正月には学生たちが台湾料理を食べに家を訪れた。もし、台湾人の宿命を抱えていなければ、王は、学者として、大学教授として、十分に幸せな人生を送ったのではないかと思われる。
 
しかし、王育徳の中に、一日も早く台湾人を救いたいとの思いは抑えがたく、大学院修了を待って、台湾独立運動に入ったのだった。


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