家村和幸
▽ ごあいさつ
皆様、こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
今回と次回の二回にわたり、我が国における兵制の遷り変わりとそれぞれの時代における武人の特質について述べてまいります。全体の構成と前後編の区分は、次のとおりです。
1 通 説(前)
2 氏族制度時代(前)
3 律令時代(前)
4 地方豪族(地主)の集権時代(前)
5 武家執政時代(後)
6 結 言(後)
今回は、前編として上古の昔から平安時代までを扱い、鎌倉幕府成立から後は次回とします。なお、前回「武士の沿革と武士道」で述べた武士発生の経緯と重複する内容は省略いたします。
【第3回】武士道概説:兵制の変革と武人の特質(前編)
▽通説
我が国の兵制が古代から時代とともに推移してきた経緯は、国運の消長や大和心の盛衰と密接な因果関係を有し、それぞれの時代の武人の特質を形成するとともに、軍の統帥に甚大な影響を及ぼしてきた。特に平和な時代が続いて太平の世に慣れてくると、庶民のみならず武人の精神や行動もことごとく戦(いくさ)から縁遠くなり、離背していった。
▽氏族制度時代
1 神武天皇に始まる天皇自ら軍を統率された上古の時代は祭政一致の時代であり、皇命に従わないものがある時は、天皇や皇族による親征となり、時としてその指揮を臣下に委ねられた。当時軍務に従事し、天皇の親衛たる地位にあったのは、久米、大伴、物部の三氏とされていた。
この時代には、神武天皇の東征を初めとして四道将軍の派遣、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征西討、また神功皇后の三韓征伐などがあり、国威は大いに振っていた。北陸・東海・西道・丹波に派遣された四方の皇族将軍は、辺境をわずか七ヶ月以内で平定し、日本武尊は武勇と智謀をもって化外の蛮族を鎮められ、また神功皇后の偉功は我が国の威武を海外にまで振われた。
このように軍の統帥は極めて良好なものであったが、軍職を管掌していた名族の久米氏が先ず衰え、大伴、物部の二氏が軍務のみならず政務にまで関与するようになると、相互の対立から部隊を私兵として用いるようになり、軍の統帥における一大汚点を残す結果をもたらした。
2 氏族制度時代における武人の特質
この時代の武人は神武天皇の東征からまだ日が浅く、建国の精神が徹底されていて、忠孝(君臣の義、親子の情)の二義が深く浸透しており、武人の忠誠心は高く、勇武に満ち溢れていた。例えば、垂仁天皇の時代(BC29〜AC70年)、田道間守と称する者が病に伏す帝のために万里の波涛(はとう)を越えて極めて希少な薬草を捜し求めて帰ってきたが、帝は既に崩御されていた。間守は御陵にて三昼夜にわたり慟哭(どうこく)し、遂に絶息してその至誠を表わした。
また、欽明天皇の時代(539〜571年)には、伊企儺(いきな)軍に敗れて新羅に捕われた日本軍が、忠節を守って黙秘し、全員が死んだこともあった。
▽律令時代
1 大化の改新(645年)により専横を極めた蘇我氏一族が滅亡すると、氏族制度の専門職が廃止されて朝廷が直接兵権を握った。朝廷は全国皆兵の制をしくとともに、武器・糧食を貯蔵して有事に備えた。天智天皇の時代(668〜671年)には防人、烽火(のろし)を対馬、壱岐、筑紫に設置し、天武天皇(御代673〜686年)は兵力をもって天下を得られてからも常に軍事に心を用いられ、兵政官を置いて皇族をその長官とし、諸国に派遣して積極的に軍事訓練を実施させるとともに、歩兵と騎兵の二種を設置された。
持統天皇(御代690〜697年)もまた全国男子の四分の一を徴兵して訓練するよう命ぜられ、文武天皇(御代697〜707年)が養老令を発令された時点において我が国の兵制は最も良く整備されたといわれている。
養老令によれば、兵制は唐の制度の短所を補って長所を採用したもので、兵部省があって軍務を総括し、徴兵の法を行い、かつ軍隊も軍団制〔五衛府(後に六衛府となる)及び大宰府の編成〕とし、衛府及び太宰府は省外に独立した官府とした。衛府は宮城の警備を所掌し、太宰府は九州、壱岐、対馬を管轄し、外国との関係を処理する等、西方の防衛警備に任じた。
聖武天皇の時代(724〜749年)には、大野東人を鎮守府将軍に任命して東北を鎮定させ、また桓武天皇の時代(781〜806年)には坂上田村磨らをして東夷を平定せしめられた。この時代においては軍隊の統率が天皇に直属している関係上、軍の統帥指揮は極めて良好であった。
2 律令時代における武人の特質
この時代の武人は氏族制度時代の伝統を踏襲(とうしゅう)し、その忠誠心や武勇を尚(たっと)ぶ気風は前代に比してほとんど遜色がない。例えば持統天皇の時代、捕虜となった筑紫の一兵士・大伴部博麻(おおともべのはかま)が、唐の謀略を知ってそれを報告するため、自ら身を売った金で他の捕虜を使者としたように、一介の兵士でも強烈な忠誠心や憂国の志があった。
また、坂上田村磨は剛肝英武にして、幾度も東夷を征伐して偉功があったが、没後その遺骸を葬(ほおむ)り将軍塚を造ると、凶変が起こる毎にこの塚が鳴り動いて予めこれを警告したように、死してなお忠烈の士であった。
また、宇多天皇の時代(御代887〜897年)に新羅の賊が対馬を襲ったが、国守であった文室美友(ふみむろよしとも)は、「箭(や)を額に植うるものは賞あらん、背に被るものは誅す(敵の矢を額に受けた者は賞を与え、背中に受けた者は処罰する)」との命令を発している。当時は、藤原氏が浮華文弱を風靡(ふうび)しようとしていた時代であったにもかかわらず、武人にはこのような忠勇義烈の精神が漲(みなぎ)っていたのである。
▽地方豪族(地主)の集権時代
1 律令兵制の時代的変遷
律令時代に隋や唐から多くの文化や制度を取り入れた中で、「兵は不祥の器なり(老子)」というように武器を持って直接戦う者を殺戮的で不吉な者として扱うシナ思想が混入したことは、その後の兵役制度に少なからぬ悪影響をもたらした。
律令の兵制においては、三十ある官位のうち八位以上の位階にあるものは兵役を含むあらゆる課役を免除されていた。このため、兵役の義務を負うのは低級位階の者、若しくは一般庶民に限られた。しかも兵士の糧食や弓箭(せん)・刀矛等の武器は自弁であったため、相当の資産があるものでなければ兵役の義務を完全に果たすことができず、貧民の中から召集されたものの多くは悲惨な境遇に陥(おちい)ることとなった。又、中流階級以上の者が「代役」の法を執れるようになってからは、益々兵士の品位が低下することとなった。
次いで歳月を経るに従い、軍団の兵はことごとく貧弱になっていった。天平時代(729〜749年)においては陸奥、出羽、越後、長門及び太宰府管内等の国防上特に警備を要する地方以外は、当分の間諸国の兵士を廃止するようになり、その後、延暦(えんりゃく)年間(782〜806年)には辺境以外の全国の兵士を廃止した。光仁天皇(御代770〜781年)は、ある程度の富を有する百姓にして才があり、弓馬に堪えられる者のみを選抜して兵にさせ、ここに兵農が分立した。
嵯峨天皇(さがてんのう)の時代(809〜823年)には軍団の兵も廃(すた)れて諸所の警備に欠乏を生じてきたことから、新たに検非違使(けびいし)を置いてこれを補ったが、その弊害は甚しく、諸国で一斉に豪族が起った。豪族はその子弟や従僕を養って私兵とし、これを家の子、郎党、又は家人と称して互いに弓馬により雌雄を争うようになり、兵馬の権(軍の統帥権)は逐次地方豪族に移っていくようになった。
天長年間(824〜834年)、太宰府の上奏により兵士を廃止して選士とし、天慶(てんぎょう)年間(938〜947年)には荘園から兵士を召集し始めた。当時、荘園を知行していた全ての神社仏閣もこれに準じて兵士を荘園から召集し、権益を守るための闘争手段とした。このため、僧兵がいたるところで横行し、放火や殺りくを悉(ほしいまま)にする等、ここにおいて兵馬の権は全く朝廷の手を離れた。このような状況から、京都には盗賊が横行し、地方には叛徒(はんと)が出てきたが、これらを平討できない状態となってしまった。
この時代における地方の地主はその所領を保全する方法として家の子郎党を養い、武を練る一方で、中央の権門勢家と結びついて国司を抑圧することに努めていたが、偶然に源平二氏の武家と接触することになった。
もともと地方地主を田舎人と侮蔑していた権門勢家と比べて、源平二氏が自分たちをよく理解し、同情心に富んだ武家であることを発見した地方地主たちは、自らの所領を寄付して従属関係を結ぶようになった。こうして、武家が京(中央)から征伐の命令を受けた場合には、地方地主がその家の子郎党を率いて武家に従い、死生を共にするようになった。これらが、当時「武者」又は「武勇の輩(やから)」と称していた武士である。
すなわち、この武家と武士との関係とは、地主である武士が当時の兵制により自らの所領に課せられる兵役を武家に向けて捧げたものに外ならない。平家がその最盛期を迎えていた時には、全国地頭のほとんど全てがその家人であったと云われているが、これは彼等の従属関係が所領に立脚していたことを示すものであり、頼朝の武家執政時代とは少々その趣を異にするところである。
この時代、後三年の役において源義家が私財をもって部下の労を慰め、論功を賞したことや、保元・平治の乱に源平二氏が骨肉相食み、鎬(しのぎ)を削り合ったこと、あるいは保元の役における為朝らの献策が藤原頼長によって拒否されたこと等は、氏族制度時代や律令時代に見られた理想的な軍隊の統率、統帥や武人の在り方からすれば、明らかに歪んだ社会的事象の一端が現われたものである。
2 地方豪族の集権時代における武人の特質
この時代の初期には藤原氏が政権を掌握し、優雅にして軟弱な貴族的風潮が蔓延する一方、中央では武人としての気風が衰え、唯一地方豪族によってのみ古代武人の剛健忠誠の風潮が継承されていたに過ぎなかった。しかし天慶の乱から前九年、後三年の両役を経ると、逐次本来の武人の面目に還元しようという動きが生じ、又、軍中においても温雅にして優美な貴族的風潮が一部に取り込まれるようになると、むしろ神仏を信仰する念が深まり、勇武の外に慈悲や敬虔(けいけん)の念を著しく高め、廉恥を重んじ名節を励む風潮さえも生じるようになった。
この時代末期には源氏が衰えて平家が栄えたが、権力を独占した平清盛の倣慢不遜(ごうまんふそん)が遂にその絶頂に達するようになると、古代から武人が朝廷への忠勤に励んできた風潮は一時その姿を潜め、武人は朝廷から指揮を受ける機会を失い、自らが地域社会の運営に当たらなければならなくなったのである。
(「兵制の変革と武人の特質(前編)」終り)
(家村和幸)
《日本兵法研究会主催イベントのご案内》
【家村中佐の兵法講座 −楠流兵法と武士道精神−】
演 題 第二回『「楠正成一巻之書」を読む』
日 時 平成25年4月27日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
場 所 靖国会館 2階 田安の間
参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
【第12回 軍事評論家・佐藤守の国防講座】
演題『日本を守るには何が必要か=日米”友好”と日中”嫌悪”の実態=』
日時 平成25年5月12日(日)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
場所 靖国会館 2階 偕行の間
参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp
FAX 03-3389-6278
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