【武士道精神入門(2)】武士道概説:武士の沿革と武士道

【武士道精神入門(2)】武士道概説:武士の沿革と武士道

                   家村和幸

▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
前回は、人間が作り上げた最高の理性とも云うべき武士道が、日本人特有の理念・道徳規範である大和心と一致不可分であることについて述べました。そして、武士道の本質が遠く神代に淵源(えんげん)しており、古代から我が国の武人が忠誠心に厚く、至誠と勇気に満ちあふれていましたが、鎌倉時代になって武家政権が成立するとこうした精神が大いに勃興し、躍進を遂げたことにも触れました。そこで今回は、武士という階層が発生した経緯と武士道との関係について詳述いたします。

【第2回】武士道概説:武士の沿革と武士道

▽ 神話にみる武士の基源

 我国の武士の由来は、古事記や日本書紀に記述されている天孫降臨に見ることができる。皇室の御祖神(みおやがみ)であられる天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、御孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を高天原(たかまがはら)から地上に降して、葦原中国(日本のこと)を治めようとされた。
このとき、大伴氏の祖である天忍日命(アメノオシヒノミコト)と久米氏の祖である天津久米部命(アマツクメノミコト)が弓矢、太刀などで武装し、多くの部隊を率いて天孫の御降臨を護衛された。これが我が国における武人の遠祖というべきものである。

 その後、神武天皇の東征では、大伴氏の祖先である道臣命(ミチオミノミコト)と久米氏の祖先である大久米命が従軍して大活躍するとともに、物部氏の祖先である邇藝速日命(ニギハヤビノミコト)が皇軍に降伏して忠誠を誓った。神武天皇が日本全土を平定し、大和の橿原(かしはら)に都を定められた後、大伴氏は宮門を守護し、 物部氏は矛(ほこ)や盾の造備にあたったが、これらが後の世における衛士の始まりである。
当時はまだ明確に武士という一階級を設けていないが、これら大伴、物部、久米の諸氏族は常に武器を執って従わない勢力を討つという職を与えられていたのであり、それゆえに大伴氏や物部氏などが後世の武士の始まりであるといえよう。

 次いで農工商に職業が分れ、田畑を作るのを田部と云い、絹布を織るのを服部(はたべ)と称した。この田部と服部には皇族が多いことから他の職業よりも身分が高く、その後これを良家と称して優待し、この良家の子弟が守兵の兵士となり、国防上重要な僻地(へきち)の防人として勤務した。

 成務天皇の時代(131〜190年)に郡県制という中央集権的な地方行政制度を定め、 山河を区画して郡県に分け、道里を制定し、郡や県を治める地方官にはそれぞれ楯と矛を賜ってこれを表した。その500年後、文武(もんむ)天皇の大宝年間(697〜707年)には大宝令が出されて兵制が確定され、朝廷から勅令が発せられると全軍がことごとく独りの将軍の指揮下で動くようになり、又、徴兵令が制定されることにより国民皆兵の制度が整った。こうして初期的な武士の姿が形成されていった。

▽ 武士の変遷

 奈良時代から平安時代にかけての健児(こんでい=各地方の軍団)の廃止と復活など、大宝令による兵制にも数々の変遷があり、光仁天皇、桓武天皇(かんむてんのう)の御代(770〜806年)を最終としてその命脈を絶つことになった。ここにおいて中央政府の威力もすでに昔日の面影を失い、もともと秩序や風紀が乱れがちであった地方政治は、地方官の堕落とともに益々綱紀が衰頽(すいたい)した。
悪政に苦しんで逃亡する住民が発生し、民衆が不法をなす地方官を中央に訴えたり、館を襲ったりして、社会は混沌とした状態に陥ったが、民衆は未だに独立して自らを治め、社会秩序を形成するだけの十分な力を有していなかった。このため、他の何らかの勢力に頼って秩序ある社会を見出そうとしていた。こうした要求に応じて現れたのが、新たなる「武士」だったのである。

 このように上代の武人、健児から近代化したいわゆる武士の発生に至る経緯は極めて複雑であるが、その最も主だった系統は京都の貴族でありながら地方での任務に就いていた者、あるいはその子孫で地方に土着していた者から出てきたものと考えられる。

 源氏と平氏もこの時代に発生した。桓武天皇(御代781〜806年)の曾孫である高望(たかもち)という人物は上総介(かずさのすけ)となって赴任し、任務が満了しても京に帰ることなく次第に勢力を東国に養い、平氏として威力を振うことになった。
又、清和天皇(御代858〜876年)の孫である経基(つねもと)は、天徳5(961)年に源氏を名乗り、天慶の乱(939年)において藤原純友を討伐した功績により武蔵守に任ぜられ、後に上野介となって世を去ると、経基の子である満仲が国司として各地を歴任した。

 こうした当時の地方官であった武士は、門地(=家柄、門閥)を重んじ、官位獲得を無上の光栄としていた。このため、機会ある毎に京都の貴族との縁故を求め、いかなる危険も意に介せず、進んで多大の犠牲を払いながら任務を遂行した。これらは官職による権威をもって地方の人々を自在に動かすことにより、自己の勢力拡張の具に供しようとした為であった。それにもかかわらず、地方官は依然として京都の貴族よりも軽視され、低い官位を甘受しなければならない境遇に放置されていた。
このような処遇への反動として地方官はさらに一層武力を養い、富を積んだ結果、遂には京都の華やかで文化的な生活を厭(いと)うようになり、任期を満了しても帰京を望まず、土着して地方民衆のために尽くすことに努めたことから、地方の民衆の心は彼等のもとに集まり、遂に地方勢力の中心となった。

 又、中央政府も地方の安寧を維持する為、こうした地方官の力を借りざるを得ない状態となり、追討使や追捕(ついぶ)使等の官職を授けて軍事、警察の権限を管掌(かんしょう)させた。その結果、武士の実力は更に増大し、強固で揺るぎないものとなっていった。

 当時における京都の状況は、貴族がぜい沢の限りを尽くし、華美にして享楽的な生活に陶酔している一方、巷では放火、路上の追剥(おいはぎ)、夜盗の襲来、喧嘩刄傷(じんじょう)等が頻発していた。これらに僧兵による民衆の生活への威嚇等も加わり、秩序は乱れて風紀は廃頽し、これを収拾して不安を一掃する為には武力による以外にはない状態となった。このため京都の民衆は地方武士の勢力を渇望し、こうしたことを受けて武士は京都に出入して貴族と接触する機会を得ることとなった。

 京都に出入して優雅な文化の雰囲気を味わった武士の中には、貴族的なものに魅惑される者も多かった。その一方で、武士本然の姿は地方にあり、武士の故郷は依然として地方にあったことから、心ある武士は地方において修養し、地方の疎野なる文化の裡(うち)に鍛錬され、かつ陶冶(とうや)することをもって武士の本領であるとの自覚を失わなかった。こうした武士は、貴族の柔弱な生活に同化させられることを不快とし、時代を経るに従って貴族臭さが消え、純粋の武士的素質に還元するようになっていった。

 これとともに、武士の間において切磋修養を積み、自己の素質を向上させていこうとする精神面での変革を起し、従来の疎野そのものから、さらに洗練されてきた武士の面目を発揮していくようになった。
この頃まで、中央では摂政・関白の地位を独占した藤原氏の専横が我国古来の尚武の精神を消磨し、武人を賎(いや)しめていたため、武士の地位は常に従属的存在であったが、ここに至って遂に独立的存在に挽回(ばんかい)することとなった。このように武士の独立とともに「大和心を基調とした主君に殉ずる道徳」が普及したことをもって本格的な武士道が生起したものと捉えることができる。これにより、武士の社会に道徳的規律が成形され、武士の生活に潤いと精神的な余裕をもたらしたのであった。

 天慶の乱、平忠常の乱(1028年)、前九年及び後三年の役(1051年・1083年)は、武士に対してその本来の実力を発揮させる機会を与えた。次いで院政時代(1086〜1191年)においては、院(退位した前天皇)が武士をその指揮下に置いて統率し、手足のごとく使うに及んで武士の地位はいよいよ高まり、保元、平治の乱(1156・1159年)では貴族と武士が協調して事態の決着がつけられた。
その結果両者の実力において余りに懸隔(けんかく)があり、貴族の有する権力が、実地に事を処するにあたってはほとんど無価値であることを暴露し、実力を有する武士が貴族に代わって政権を掌握しようとする動きが盛んになった。

 平清盛は身を武門から起して遂に太政大臣にまで上り詰め、その一門も殿上に充ち、ここに武士の天下が訪れたかに思えた。しかし、清盛は驕奢(きょうしゃ=おごってぜいたくなさま)に流れ、代表的な貴族であった藤原氏を模倣して栄華を極めようとし、武人としての本領を忘れてしまった結果、父子二代が相次いで悶死(もんし)し、家運久しからずして壇ノ浦の藻屑と消えるのやむなきに終った。

▽ 武士道の本領

 このように、地位の向上に伴って武士が独立的存在となり、ここに武士社会の道徳規律としての武士道の発生を見たのであるが、それは「公に殉ずる道徳」であり、節操や信義を重んじ、武勇、名誉を尚び、恥を知り、名を惜み、優美華奢(きゃしゃ)を避け、剛毅朴訥(ぼくとつ)、尚武の美風を養成することそのものであった。平家の横暴によりその発育を阻止された時期もあったが、1192年に源頼朝が征夷大将軍として鎌倉幕府を開設すると俄然として飛躍発展を遂げ、完全に近い武士道の形を具現するに至った。

 この武士道の最も偉大な価値は、主君の為に命を鴻毛(こうもう)の軽きに比することであり、いわゆる「命は義に依って軽し」という忠節心である。南北朝時代に楠木正成とその一族により天下の武士に皇室とはいかなるものであるかが教えられたことで「真の忠節心」というものを武士階級に扶植(ふしょく)し、建武中興(1334年)の偉業を見ることができたのであった。
その一方で、武士道の長い歴史の中では、このような大義を欠いた「覇道的忠節」へと流れたことも無しとはしない。建武中興の四年後には尊皇心の希薄な足利尊氏により室町幕府が開かれて権力が恣(ほしいまま)にされた。これが伝わって戦国の乱世となるが、そこに数多の優れた戦国武将の現出を見て再び武士道に光明を認めつつ、徳川の時代へと移っていった。

 近世末期、ペリーの黒船来航を機に尊皇論が勃興するに至り、それまでの長きにわたり涵養されてきた武士道精神はその本来の帰趨を知り、伝統的な威力を発揮したことにより維新の大業の源泉となった。
戦いに斃(たお)れ、あるいは刑場の露と消えた勤皇の志士たちは、武士道の真髄である「内は物慾に捉われることを卑んで魂の自由を索(もと)め、己の生活においては分に安んずるを知り、而(しこう)して外には忠孝の二つを以て道徳の極致とし、而(しか)も忠孝の二つが究局して忠の一字に帰着することを明確に認識し、奉公随順の誠を致し、信義の麾(さしまね)く所悦(よろこ)んで死地に入り一命を致さんとする凛烈(りんれつ)たる節義の極地」を自らの命に代えて実践したのであった。

(「武士の沿革と武士道」終り)

(家村和幸)

《日本兵法研究会主催イベントのご案内》

【第11回 軍事評論家・佐藤守の国防講座】

 演題『 私の戦闘機人生 =君もパイロットになれる!= 』

 日時 平成25年3月10日(日)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

 場所 靖国会館 2階 田安の間

 参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料

【家村中佐の兵法講座 −楠流兵法と武士道精神−】

 演 題 第二回『「楠正成一巻之書」を読む』

 日 時 平成25年4月27日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

 場 所 靖国会館 2階 田安の間

 参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料

 お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp
     FAX 03-3389-6278
     件名「国防講座」又は「兵法講座」にて、ご連絡ください。


投稿日

カテゴリー:

投稿者: