宮崎正弘
何度ご馳走になったことだろう。何回、議論したことだろう。熱血漢、迸る活気は、あの壮健な身体からあふれ出るようだった。
台湾へ行くと、氏の事務所をよく訪問したが、ある時は雑誌記者を、ある時は評論家グループを引率した。ラジオの番組のため録音取りに伺ったことも二回あった。青島東路と杭州南路のあたりで、時に道に迷った。
ミッキー安川さんが生前、台湾取材へ行くから案内せよというので同道したおりも、黄主席の、大局をいきなりわしづかみにする話し方とそのわかりやすさに感動し、「日本に来たら是非、番組に出てくれ」と頼んでいたが、先にミッキーさんが冥界へ旅立った。
その後、息子のマット安川氏が父親の遺志をついで台湾へ取材に行くと真っ先に黄昭堂主席にインタビューした。
ある時はルーズベルト通りの奥に引っ越した「真北平」という北京ダックの名物店に六名ほどで行ったが、食欲もすごい人で、ミッキーさんも食通だったが、二羽をたちまちにして平らげたことは強烈な印象で影像がまぶたに浮かぶほどだ。
氏の台湾独立にかける熱意は、台湾独立運動活動家の精神的支柱でもあった。
合掌。
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下記に再録するのは、2004年10月8日付けの拙日誌からである。七年前に黄さんは愛妻に先立たれ、東京で葬儀を行ったときの思い出である。
(10月8日)冷たい雨の日。午後から雨足が強まるが、荻窪の台湾教会へ。台湾建国独立連盟主席の黄昭堂さんの奥さん(謝蓮治夫人)が急逝され、東京における葬儀が行われる。
時間前に教会に入ったが、すでに衛藤瀋吉、石原萌記、宗像隆幸、黄文雄、久保田信之、周英明・金美齢夫妻、藤井厳喜、鳥居民、謝雅梅、山田恵久、野間健ら各氏の顔がある。狭い教会なので遅れた人は場外の立ち見となった。
黄昭堂さんら台湾独立の闘士らは、国民党独裁時代の92年までブラックリストに載っていて、台湾に帰国できず、ほとんど人は親の死に目にもあえなかった。東京での下宿生活は黄さんの狭い四畳半に、同士があつまって政治議論に熱中し、(孫文の時代をおもいだすなぁ)、王育徳教授が日本における独立運動の生みの親。当時明治大学の宮崎茂樹教授らも「人権」「人道」という立場で台湾独立を支援した。
下宿での議論のそばで謝蓮治夫人はもくもくと料理をつくった。夫人は台湾大学文学系、黄昭堂さんは医学系でキャンパスが違う。ちなみに一級下の周英明さん(金美齢女史の夫)は理工系だった。周教授いわく。「ふたりはどうして知り合ったのだろう?」。
こうした亡命生活が長く続いたため同士たちの繋がりは深い。まるで皆が親戚のようであり、兄弟のようでもあり、一時、日本に亡命した澎明敏(現総統顧問)や米国へ留学する羅福全(前大使)、許世楷(現大使)らが交遊の輪にいた。宗像隆幸著『台湾独立運動私記』(文藝春秋)によれば、澎明敏が台湾脱出の際は、体型のよく似た宗像の友人が日本のパスポートをもって入国し、身代わりを引き受けたという。
日本は当時、外交的には反共の国是から蒋介石政権支援だった。が、民間では同時に台湾独立運動も支援というアンビバレンツをかかえていた。
9月中旬に台北で開催された本葬には陳水扁総統、呂秀蓮・副総統、李登輝前総統らずらり台湾政界の重要人物が参列した、という報道を『自由時報』で読んだ。厳粛なセレモニーの最中、小生がひとつ不思議に思ったのは、なぜかくも根強く台湾の知識人達をキリスト教が虜にしたのか、という戦後社会学のテーマだった。戦前、日本は神道と日本的武士道と日本的仏教を台湾に持ち込んだ。土地の宗教は道教がつよかった。
大陸から逃げ込んだ蒋介石と宋美齢はキリスト教徒だったが、小生これは欧米を味方とするために過剰にキリスト教徒を演じたと考えており、台湾独立派へ蒋介石的キリスト教が影響を与えたとは考えていない。台北郊外の蒋介石屋敷址にも南京の美齢宮(宋美齢の別荘)にも、これ見よがしの礼拝室がある。
だからなぜ反蒋介石派の、台湾の知識人が戦後はキリスト教徒になったのか、新渡戸稲造が日本より台湾で人気がある秘訣もどうやら、そのあたりにありそうで、三島由紀夫的な、あるいは「葉隠れ」的武士道ではなく、キリスト教徒新渡戸が解釈した武士道を李登輝さんが鼓吹している背景とも、この問題は深く絡み合ってくるのだろう」。
そして七年後、黄さんも冥界に旅立たれた。
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