【日本語世代】初めての弔辞を書いた

【日本語世代】初めての弔辞を書いた

作者:ペンネーム「台湾の真実」

9月11日 初めての弔辞を書いた

かつての七ボタン予科練の陳進瑞君の葬儀に、弔辞を同窓
会会長に頼んだが、前向きな返事ではなく、以前彼が幹事や
っていた時の会長に頼んでみたら、軽度の脳中風で手が震
えて書けないという。

関係のあった方達がいざという時には、なにやかにやで宛に
ならない事が、この時に至って身に染みて判った。

しかし、夫婦合わせて20数名にもなるグループだから、せめ
て一人か二人でも弔辞あげないと淋しくもあり、気の毒である。

仕方がないので、現役の幹事である私が書かなければ成らな
くなった。もっとも我々が受けた教育は日本語教育だから、日
本文である。過去の想い出も折り込んでA4 二枚に書き込ん
だ。後にも先にも初めて書いた弔辞だった。

それに、彼は日本海軍だったので、皆の同意の下、お香上げ
た後に、彼の為に「同期の桜」を皆で歌って上げる事と成った。

彼との知り合っていた 阿蘭ちゃんのカラオケ屋さんに頼みそ
の時に使うCDを作って貰った。

普通 海軍で水葬を行う場合は軍楽隊が「海ゆかば」の曲を吹
奏するのだけど、この曲はあまりに荘厳ではあるが、淋しすぎ
るから、もっと元気な歌にしょう、との意見で同期の桜に決めた
のである。

しかし、それにしても同期の桜がまたもいちりん散って仕舞うの
は、本当に淋しい事である。

9月13日 消えてしまった“恩賜の時計”

日本海軍最大の訓練基地、土浦海軍航空隊では、全校
16、000名の生徒を擁していたとの事 でした。 学校創立は
山本五十六海軍大将でした。

その中で、台湾出身から総督賞、(長谷川海軍大将)、優良賞
を合わせて二つも貰った予科練生は、 日本の予科練生にもそ
んなに数は多くないと思います。

その副賞に陛下からの恩賜の時計が、日本から運んで来る船
と共に海底の藻くずになったのです。

戦後我々が、もう日本も平和になったから、この事を日本政府
に報告して、陛下から改めて下賜される事申請してみたらどう
か。と言ったら、「いや、もう過ぎたことだからいいよ。」と別に
気にもしていなかったのです。

この事に私は、この陳進瑞君こそは、スッカリ日本精神に凝り
固まった日本的な台湾人だな。 と思ったのです。

高雄海兵団の一期、二期を合わせて3000名の中から、ごく
僅かな数名の優秀な日本海軍軍人に 成れたことは非常に素
晴しいと思いました。

だから、この優秀な、旅立ってゆく陳君のために「同期の桜」を
選んであげ、皆で歌って上げた事 は非常に妥当だったと思い
ます。 葬儀に参列された日本人の方も「良かった、良かった!」
と喜んでくれました。

9月16日 ウォルサム(WALTHAM)

前の日記に、“恩賜の時計”の事 書いたら、物知りの「台湾老
鼠」さんからコメントで、Googleに保存されている、ブログのキ
ャッシュを教えて貰った。

これで、恩賜の時計とは腕時計の最高峰ウォルサム・ラディア
ント、ウォルサム恩賜の銀時計(懐中時計)であることが判った。

昔、小学生の頃、父がウォルサムの名前を口にして居ったから、
恐らく父が持っていた懐中時計がそうだったに違いない。

また、当時の駅長さんは揃いも揃って、腕時計ではなく、懐中
時計を見てから、機関車の運転手に手を挙げサインをしていた
のです。

だから、分秒を争う汽車のダイヤには、恐らく正確な高級時計
でなければならなかったのでしょう。

ただ、同じ高級時計でも、大きな違いは、時計のカバーに「御
賜」(ぎょし)と彫られ、価値観は雲泥の差である。ブログの記
録には、戦前世代に強い印象を残している言葉に“恩賜の時
計”がある。 帝大、学習院、陸、海軍大学、などの成績優秀
卒業者に、天皇陛下から贈られた懐中時計の事である。

“恩賜の時計”を持っていれば、飛び切りの“成績優秀者”を証
明する事であり、洋洋たる未来を約束された社会のエリートで
あった。

懐中時計に「御賜」(ぎょし)と彫られ、高級官僚の養成機関を
目的に設立された帝国大学や、武官の養成所の士官学校な
どの生徒を励ますために行われた。

陸、海軍の諸学校は敗戦間際まで続いていたとの事だった。
なお学習院は戦後まで 続いていたから、私が陳君にアドバ
イスして、貰い損なった“恩賜の時計”を申請したら、もしかした
ら叶えられたかも知れない。

宮内庁の記録によれば、御下賜時計の購入は、明治44年か
ら昭和2年までは、服部時計店から取り寄せておられたとの事
でした。

死ぬまで見ることの出来なかった陳君に、せめて、ブログの写
真“恩賜の時計”をプリントして霊前に飾らして貰うつもりです。


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