八田與一の旅(その1)山野之義

驚くべき、「知の巨人」李登輝前総統

 毎年5月8日、八田與一墓前祭が台南の烏山頭ダムのほとりで開かれています。
この墓前祭には八田與一技師の出身地である石川県金沢市の「八田技師夫妻を慕
い台湾と友好の会」(長井賢誓会長)が昭和60年から参列していて、世話人代表
で事務局長をつとめる中川外司(なかがわ とし)氏には、機関誌『日台共栄』
第5号「李登輝前総統来日!!」の特集でもご執筆していただいています。
 今年、この墓前祭に参列した金沢市議の山野之義(やまの ゆきよし)氏がそ
の紀行文を書いています。山野氏がブログに掲載していたものですが、いささか
手を入れてお送りいただきましたのでご紹介します。
 抑制がきいた品のいい文章にはなかなか巡り合わないものですが、この山野氏
の紀行文の読後感はそれを思い出させます。2回連載で掲載しますが、次回には
許文龍氏が登場します。                    (編集部)


八田與一の旅(その1)

                        金沢市議会議員 山野之義

 この連休に、台湾に行ってきた。「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の一
員として、八田與一の墓前祭に参列するためである。また、八田與一に連なる、
様々な出会いもあり、陳腐な表現になるが、「感動」という一言に尽きる旅であ
った。
 金沢に戻り、一週間。すっかり落ち着いた中で、あっという間の4泊5日の「
八田與一の旅」を、少し振り返ってみたい。

 5月5日の早朝に金沢を出て、台湾に到着。翌6日、台湾前総統の李登輝氏に
お会いする機会をいただいた。
 最初に、会を代表して中川外司世話人から、昨年末、李登輝氏が金沢に来られ
たことのお礼の言葉が述べられ、それを受ける形で、李登輝氏がご挨拶をされた
。それは、挨拶というよりも、講演に近いものであった。八田與一及び金沢に対
する想い、現在の日本、台湾のあり方、さらには、今後の台湾の進むべき方向性
を、50分近い時間をかけて力強く語られた。
 昨年末、金沢を訪れた印象を語られた言葉の中で、「金沢の雰囲気を知り、こ
のまちが多くの偉大な人物を生んだ理由が良く分った。進歩の中に伝統を失わず
、の精神があったからだ」と聞いた時は、さすがに、心を揺さぶられた。
 少々解説がいるかもしれない。
 李登輝氏は、これまでも、最も尊敬する日本人として、八田與一、西田幾多郎
、鈴木大拙の三氏をあげられている。言うまでもなく、八田與一と鈴木大拙は金
沢市生れであり、西田幾多郎は宇ノ気町出身ではあるが、李登輝氏からすれば、
西田幾多郎も金沢の気風の中で出てきた人物である。実際、西田幾多郎は、金沢
四高に学び、その後、教鞭をとられていたこともある。
 それらを踏まえての、先の言葉である。この三氏ともに金沢の気風の中で生ま
れてきた偉人であり、その気風とは、「進歩の中に伝統を失わず」の精神である
と、私たちの前で喝破された。それは、あたかも、私たちに、忘れてはならない
と諭されているようでもあった。
 さらに、日本であれ台湾であれ、これからの時代に大切な要素として三つあげ
られた。一つは、国の目標は何かをはっきりさせなければいけない、二つ目には
、指導者(リーダー)が確固たる信念を持ちしっかりしなければいけない、三つ
目には、自分とは何かというアイデンティティをしっかり持たなければならない。
 特に、このアイデンティティという言葉を何度も使われていた。現在の、台湾
の置かれている状況や、これから先の行く末を想い、深く期するところがあった
のであろう。
 西田哲学だけではなく、漱石の「私の個人主義」も引用されての力説であった。
 「自分は誰かと問われて、自分の国の歴史や思想に誇りを持って答えられない
ようでは、アイデンティティは確立できない。」
 アイデンティティと並んで、何度も繰り返していたフレーズがある。
 「私は私でない私。」

 西田幾多郎や鈴木大拙に心酔する、まさに、禅問答のような言葉である。
 これは、私は次のように解釈した。
 私という人間が存在するということは、それは、無垢な個人としての私なので
はなく、これまでの生まれ育ってきた伝統や文化、風習等々を全て背負った私、
つまり、先にあげた言葉にあるように、自分の地域や国という「公」を自覚した
私なのである。その自覚のない「私」とは、無意味で空疎な存在に過ぎない。
 李登輝氏は、私たち全員に、最新の著作である、「新時代台湾人」を配られた
。いただいた著作は北京語版であったが、後日、日本語に翻訳したものをいただ
いた。まさに、台湾人としてのアイデンティティを明確にした著作である。
 私は、質問の機会をいただいたので、再度、日本への訪問を要望すると同時に
、新渡戸稲造の故郷岩手県への訪問について尋ねた。

 あまり知られていないが、台湾と新渡戸稲造の縁は深い。
 日清戦争後、日本の統治領となった台湾に、後藤新平が民政長官として就任。
後藤は台湾財政確立のため、産業の振興を推進しなければならないと考え、郷里
の後輩である新渡戸稲造を招集した。あの有名な「武士道」を著した翌年のこと
である。
 新渡戸稲造は、それまでも、札幌農学校の教授として、農政学と植民論を担当
し、「農業本論」等の大作もまとめていた。それらの実績が認められての大抜擢
であった。
 後藤新平の台湾統治論は「生物学的植民地論」とも言われる、これまでの欧米
の植民政策とは、明確に一線を画するものであった。少々長いが、以下、後藤新
平の言葉を引用する。
 「社会の慣習とか制度とかいふものは、皆相当の理由があって、永い間の必要
から生まれてきてゐるものだ。その理由を弁へずに無闇に未開国に文明国の制度
を実施しようとするのは、文明の逆政(虐政)といふものだ。そういうことをし
てはいかん。だから我輩は、台湾を統治するときに、先ずこの島の旧慣制度をよ
く科学的に調査して、その民情に応ずるように政治をしたのだ。これを理解せん
で、日本内地の法政をいきなり台湾に輸入実施しようとする奴等は、比良目の目
をいきなり鯛の目に取り替へようとする奴等で、本当の政治といふことのわから
ん奴等だ」
 その最前線に立ったのが新渡戸稲造である。新渡戸稲造は、現地の自然環境を
調査研究し、糖業の改良に目をつけた。
 ハワイからのさとうきびの導入を通じて、幾多の品種改良を行い、また、搾糖
機械の技術革新が図られ、製糖業の近代化を進めた。台湾製糖株式会社以下多く
の大規模な製糖会社が次々と設立され、在来の零細企業の「糖」は、近代的な米糖
産業と脱皮することになっていった。欧米型のモノカルチャー型生産ではなく、
地域に根ざした産業として発展していった。
 さらに、日本統治下の台湾は、この米糖経済を土台にして、工業化の時代を迎
えることになるのであるが、そのことについては、長くなるのでここでは触れな
い。ただ、戦後の台湾の成長は、それらが基礎となったことは間違いないし、戦
後間もなく、台湾経済が貧窮した時代、砂糖産業が最大の外貨獲得の手段であっ
たということも、新渡戸稲造の功績と言っても過言ではない。
 話は少し飛ぶが、米についても、日本人技師磯永吉博士により、精力的な品種
改良努力が重ねられ、「蓬莱(ほうらい)米」として知られた新品種が作られた。
この「蓬莱米」は品質と収量の両面で、当時の東アジアにおける画期的な水稲種で
あった。八田與一の作った烏山頭ダムによる、水利灌漑施設の拡充、これによる
開田が相次ぎ、「蓬莱米」による、台湾の耕地面積が急拡大したことも付け加えて
おく。
 さて、台湾には今でも、「ニトベカズラ」という花がある。現地の人が、台湾
の気候風土を理解した上で、農業指導にあたった新渡戸稲造を慕ってつけた名で
ある。
 李登輝氏も昨年、「『武士道』解題」なる本を出版した。新渡戸稲造に対する
思いは、格別なものがあるのであろう。
 その、新渡戸稲造の故郷岩手県へも、ぜひ、李登輝氏に立ち寄ってもらいたい
ところである。
 李登輝氏は、従前より、松尾芭蕉の「奥の細道」を歩いてみたいと公言されて
いる。その「奥の細道」を歩いていく過程で、ぜひ、その地も立ち寄りたい旨述
べられた。またその返答の際、俳句の「わび、さび」について触れられ、奥の細
道を歩いた後、「さびの構造」についての著作をまとめたいと気宇壮大な思いも
述べられた。
 衰えることない知の欲求。驚くべき、「知の巨人」である。
                            (2005年5月19日)


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