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――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(26)内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

【知道中国 1725回】                       一八・五・初三

――「支那人に代わって支那のために考えた・・・」――内藤(26)

内藤湖南『支那論』(文藝春秋 2013年)

内藤は「金人で成吉思汗の参謀になった耶律楚材」の献言によって「漢人というものも蒙古人のために役に立つものであるということ」が証明されたからこそ、「支那の土地を牧場にするということも成り立たなかった」とする。これを言い換えるなら、漢人に牧畜を強要することなく農耕に生きることを許したということになる。ここで考える。かりに「漢人というものも蒙古人のために役に立つもので」ないと証明されていたら、「支那の土地を牧場に」されていたといえるのだろうか。

その後の歴史を概観すると、漢人は膨大な人口を養うために蒙古人の土地へ流れ込むようなった。農耕を至上の文明と見做す漢人の目には、果てしなく広がる蒙古の草原は壮大なムダに映ったはずだ。彼らは草原の緑を引き剥がし、そこに壮大な畑地を作り出した。だが、そのことによって蒙古人は自らの文化(《生き方》《生きる姿》《生きる形》)を奪われてしまった。漢人の農耕文化が蒙古人の牧畜文化を侵食する。

かくして楊海英は「牧畜と遊牧を環境破壊の元凶だと認定」する漢人が内モンゴルのオルドス高原に続々と送り込まれた結果、経済基盤である牧畜を奪われた「モンゴル人に残された唯一の道は文化的な安楽死のみ」と慨嘆する楊海英は、「現在、開発と発展という圧倒的な政治力と経済力で最後の完成、すなわちあらゆる民族の中華化=文化的ジェノサイドの完成にむけて中国は突進している」と糾弾の声を挙げる。(『墓標なき草原(上下)』2009年)、『続 墓標なき草原』2011年。共に岩波書店)

ここで内藤に還る。

元朝に続く異民族王朝である清朝は、「支那の文明を標準として、そこまで満洲人の文化の度を達しさせたいという考えが本になって」いた。飽くまでも「支那の文明が本位になって」いたというころは、じつは「蒙古人のごとく種々なる民族を皆自分の手で支配して、各その特色を持たせながら、世界を統一して行こうというような、雄大な規模が無かったといってよい」そうだ。たしかに清朝盛時の版図は巨大だが、せいぜいが西は新疆、北は極東シベリアの南東部、南西はチベットで、南は雲南・広西で止まっている。やはりユーラシア大陸を席捲しただけではなく、失敗したとはいえ日本やジャワまで攻め寄せた元朝に較べれば「雄大な規模が無かったといってよい」だろう。

内藤によれば、「東洋において異種族間の感情を基礎にして、大なる領土を統轄した思想というものは」、元と清に対照的に見られるように、「ある文明国を基礎として、そうして他のものをそれに同化させようという考えの下に起ったのと」、「各種族の文明を独立させて、そうしてそれを同化させようという考えから起ったのと」の「二つに分けてみることが出来る」のだが、辛亥革命によって生まれた中華民国の根本は――孫文ら革命派にせよ袁世凱にせよ「とにかく漢人本位で成り立った」のである。それというのも19世紀末から革命活動の根本は「満洲人に対して反抗するというのが一つの主張であった」からだ。中華民国とは、「つまるところ漢人を中心として、それに外の民族が附属して、統轄されていくべきものであるというものであるというような理想になっておるに過ぎない」のだ。

漢人、満洲人、蒙古人、「土耳其民族すなわち回々教人」、西蔵人で構成される「五族共和という説を立てるけれども」、「今度新しく興った国の政治というものを、異種族と一致してやって行こうという考えはないのである。やはり「古い蒙古人などのように」「雄大な規模を持った人は、とうてい今日の中華民国の主たる人物間にはないことが明らかである」。「そうしてみると、どうしても漢人中心というやり方」に帰着することになる。

かくして「五族共和」という理想は、絵にかいたモチに終わる運命にあった。《QED》

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