酒井杏子(さかい あんずっこ)
(2)日本語という工具(ツール)
黄霊芝氏が本領を発揮したのは、むしろ手書きのFAXや手紙の方だった。
その文面は電話より格段に饒舌であり、小ぶりな字がA4版のコピー紙を埋め、それが時に二〜三枚に及ぶこともあった。
脳裏に浮かぶ考えや文言にペンが追いつかないのか、時にはミミズののたくったような字となり判読するのに苦労したが、どれだけ筆が走っても一度として「て・に・を・は」の使い方を間違えたり、文章の脈絡がおかしいと思った記憶はない。
このことは作家としての黄霊芝像を考える上で重要だと私は考えている。
何故なら氏にとって「日本語」が最も自然体で使える言語であり、自在に表現できる手段であったことを物語っているからだ。
あまりにも日本語の語学レベルが高いので、つい氏が台湾人であるのを忘れがちだが、あくまでも日本領時代に日本語教育を受けた外国人であった事実を思い起こせば、「日本領時代の日本語とは一種の国際的共通語だった・・・一つの言葉や文字を日常工具(ツール)として使いこなす修練は一朝にしてできるものではない」(『台湾俳句歳時記』より)とする氏らの努力と修練はいかばかりであったろう。
余談だが、日本在住が長く、極めて日本語が堪能な戦後生まれの台湾人に「日本語はあなたにとってどのような存在か」と質問したことがあった。その答えは「家庭で日常的に使っているのは台湾語で、考える時は中国語。日本語は英語のように翻訳して使っている」と。この世代の台湾人は戦後の中国語教育で育ち、黄氏の言う「一種の国際的共通語」は中国語という世代である。
黄氏の家庭の場合でも「具体的にいえば、たとえば私は日本語で妻を罵るが、戦後派の妻は台湾語で巻くし立ててくる。すると戦後生まれの娘が中国語で喧嘩両成敗に乗り出してくる仕儀だ。(上記『同書』)」の例のように、台湾では歴史と政治に人民が翻弄されて、日本領時代、戦後派、戦後生まれと、それぞれの世代が異なった言語を使うために、世代間の意志の疎通がうまくいかず、コミュニケーション不足や世代間の断絶に陥るという社会問題をいまだに引きずっている。
ともあれ黄霊芝氏をはじめ台湾の“日本語世代”と呼ばれる人たちは、普段から日本語で喋り、日本語で考えるのが当たり前というのだから、単なるバイリンガルの域を越え、母国語同様あるいはそれ以上に、人間の“核”となる思考をめぐらす回路(プロセス)や感情(感じ方)を表現する手段に至るまで、日本語が滲透し血肉化した世代といえる。
民族や国にとっての本質的属性である「言語」の大切さと恐ろしさがここにある。
黄霊芝氏は、繊細で多様な表現力に富んだ日本の文学に魅了され、自らも足を踏みいれていくうちに、それらの表現者となるためには(外国語としての)“日本語を日常工具(ツール)として使いこなせる”レベルまでに修練されていなければならないと悟った。
そして更には一日本語に留まらず、どの国や地域に芽生えた文学であっても、それを表現するにふさわしい“最適な工具(ツール)(その国や地域の言語)”があるという自論へと発展させていったのだと思う。
氏は、時代の大波をかぶれば、大切な言語までいとも簡単に変えられてしまうような歴史を見てきた。その体験から、国や政治に信頼を置くことなく、自身を「“親台”でも“親日”でもなく、“親日本語派”だ」と位置付け、生涯その信念を貫いた。