茂木弘道
盧溝橋事件は中国側がしかけた紛争なのである。そのことは発砲事件の4日後
の7月11日に締結された現地停戦協定に明確に書かれている。
3項目からなる停戦協定の第1項目は、
「第29軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、かつ責任者を処分し、将来責任をも
って再びかくのごとき事件の惹起を防止することを声明す。」
と中国側に責任があることを明記しているのである。29軍は宋哲元率いる北支
を支配する約十五万の軍である。対する日本駐屯軍(北京議定書に基づき駐屯)
は、5千6百と極少数で、圧倒的な力にものを言わせて、理不尽な停戦協定を押
し付けることなどとてもできない相談である。その後中国側はこれはなかったか
のように言うが、とんでもない話である。
▲中国の攻撃には必然性があった
そもそも日本が攻撃を行う理由は全くなかった。たった5千6百の駐屯軍が15
万の29軍に攻撃をかけるなどということが馬鹿げていることは言うまでもない
。さらに言えば、日本軍の全戦力、国内、満州、朝鮮、中国に駐屯する全戦力は
、およそ25万であった。これに対して中国は約210万である。うち50万は
ドイツ軍事顧問団の指導で装備訓練とも近代化を進めていた。さらに日本の最大
の仮想敵国はソ連であるが、ソ連は160万の大戦力を有し、うちおよそ40万
が極東に配備されていた。このような全体状況の中で、日本が北支で戦端を開く
などという愚かなことを行うはずもないし、そのような計画は皆無であった。
一方、当時の中国では日本に対する主戦論が圧倒的に優勢で、農民を除く都市
の住民は日本との戦争を熱望し、勝利を確信していたのである。当時の中国で発
行されていた新聞各紙を見ればその様子は一目瞭然である。『日中戦争:戦争を
望んだ中国、望まなかった日本』(北村稔・林思雲/PHP)が、この状況を詳述し
ている。当時の主戦派には、大別して3つのグループがあった。一つは過激な知
識人・学生・都市市民である。二つ目は中国共産党であり、三つ目は地方軍閥で
ある。
特に共産党は抗日を最大の政治的な武器として使っていた。1931年11月に
江西省の瑞金に成立した中華ソビエト共和国は翌1932年4月26日、中央政
府の名により日本に対して「宣戦布告」を発しているのである。そして、193
6年12月に西安事件が起こった。共産党討伐戦の督戦に出かけた蒋介石が、共
産党の工作を受けた東北軍司令張学良によって拘束され、共産党との共同抗日闘
争実行を迫られた。国民党の共産党対決路線が転換し、抗日ムードは一層高まっ
てきたのである。
▲そして盧溝橋事件が起こった
このようにいつどこで日本攻撃事件が起ってもおかしくない状況のもと、193
7年7月7日に盧溝橋事件が起ったのである。
日本軍第8中隊135名が、29軍に事前通告したうえで、盧溝橋城に近い河川
敷で演習をしていた。盧溝橋城と中国軍のトーチカのある土手を背にして約40
0メートル離れた所から演習を開始しさらに400メートル先で演習を終了しよ
うとする直前の10時40分頃に数発の銃弾が撃ち込まれた。その後土手方向か
ら十数発の発砲があり、翌朝3時25分にも3発、5時30分4回目の銃撃があ
った後に初めて日本軍は反撃を開始したのである。最初の銃撃からは7時間後の
ことである。
11日の現地停戦協定で29軍が全面的に責任を認めているのは、したがって当
然のことなのである。
徹底抗日を叫び続けてきた共産党が衝突事件を起こそうとするのは、当然の
ことではあるが、実は共産党は当時深刻な窮地に立っていたのである。たしかに
、西安事件により、蒋介石は共産党攻撃を中止し、共産党との協力関係をつくる
ことを約束した。しかし、その後蒋介石は次々に厳しい条件を共産党に対して突
きつけ、半年後の1937年6月頃には国共決裂の寸前となっていたのである。
エドガー・スノーは述べている。
「共産党の運命はふたたび蒋介石の意中にかかることとなり、— 1937年6
月には蒋介石は、— 再度紅軍の行く手を塞ごうとしていた。— 共産党は今
一度完全降伏に出るか、包囲殲滅を蒙るか、又は北方の砂漠に退却するかを選ぶ
事態になったかに見えた。」
この窮地打開のために大博打に打って出たのが共産党であった。第29軍の中に
副参謀長を筆頭に大量にもぐりこませていた共産党員に隊内で反日を煽らせ、そ
れにまぎれて発砲事件を7月7日夜10時40分に起こしたのである。
▲共産党が仕掛けた動かぬ証拠:78通電
共産党がこれを起こしたことは今や100%明らかである。発砲事件の翌日8日
に、共産党は延安から中央委員会の名で長文の電報を蒋介石をはじめとする全国
の有力者、新聞社、国民政府関係、軍隊、団体などに発信している。共産党の公
式史で「78通電」として特筆されているものである。さらに同日に同種の電報
を毛沢東ら軍事指導者7名の名前で蒋介石、宋哲元等に送っている。
日本軍は、8日午前5時30分に初めて反撃を開始したのである。当時の通信事
情からして8日に始めて反撃があったのに8日にこの情報を手に入れて経過を含
む長文の呼び掛け文を公式電報として作成し、中央委員会の承認を得て、全国に
発信するなどと言うことは絶対的に不可能である。唯一可能なのは、事前に準備
していた場合である。
実際に準備していたのである。その証拠が存在する。
支那派遣軍情報部北平(北京)支部長秋富重次郎大佐は「事件直後の深夜、天津
の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共軍司令
部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。「成功了」
(成功した)と3回連続反復送信していた。」(産経新聞平成6年9月8日夕刊
)とのべている。その時はこれが何を意味するか分からなかったという。今では
明らかである。盧溝橋での謀略が成功したことを延安に報告していたのだ。早速
延安では電文つくりが行われたのだ。
そして8日の朝になり、日本軍が反撃を開始したのを確認してこの長文の電報を
各地に大量に発信したのである。
戦争を起こした犯人は中国共産党なのである。
エドガー・スノーは、6月の共産党の大苦境は、日本軍が引き起こした盧溝橋事
件によって救われたと次のように述べている。
「いまやまた、共産党に再度の幸運が訪れ、極めて広く豊な機会を開いてくれた
。翌月日本の中国一斉侵攻という、<天祐>が起こり、共産党を不安定な位置か
ら救い出したのである。こうなれば蒋としても、再び完全剿滅作戦に出る計画を
放棄するほかなかった。」
自分で仕掛けておきながら、日本軍一斉侵攻という<天祐>とはよく言ったもの
である。すでに述べてきたように、事件を起こしたのは中国側であり、共産党で
ある。何よりも、5千6百の兵力しかない日本軍が一斉侵攻するはずもないし、
そんなことは行っていないのである。
(茂木弘道氏は「史実を世界に発信する会」事務局長)