【楠木正成の統率力第23回】柔を以て剛を制するの術

【楠木正成の統率力第23回】 柔を以て剛を制するの術
         

             家村 和幸

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 今回は、孫子兵法の教えをみごとに実現した
楠木正成の智謀についてご紹介いたします。

 幕府方の武将である宇都宮公綱(きんつな)は、
その勇猛果敢さで幾度も楠木を苦労させました。
渡辺橋・天王寺の戦いでは、楠木が引き退いて戦
わず、千早城の戦いでは櫓(やぐら)を一つ掘り崩
されています。今回の話では、宇都宮による最期
の合戦を避けるため、「柔を以て剛を制する」術を
施して、戦わずして味方にします。

 孫子兵法によれば、戦わずして勝つには、「上兵
は謀により討ち、その次は交わって討ち、その次
は兵を以て討つ」とされています。つまり、戦わず
に味方にするのは、一段階上の謀略ですが、これ
により楠木正成は、宇都宮公綱のみならず、幕府軍
の残党の多くを引き入れることに成功しました。

 それでは、本題に入りましょう。

【第23回】 柔を以て剛を制するの術

(「太平記秘伝理尽鈔巻第十一 金剛山の寄手等
誅せらるる事付佐介貞俊の事」より)

▽ 千早から退散した幕府軍への対処

 千早を攻めていた幕府軍は、退却して南都(奈良)
に留まり、「鎌倉へと退却しようか」と評議していたと
ころ、鎌倉幕府が滅亡したことを聞いた。

 「今はどこへ退却したらよいのか。軍勢が尽きてし
まう前に、今一度京都へ攻め上り、一戦に骸(かばね)
をさらして名を残すしかないのではないか・・・」

と諸大将が語りあった。このことが京都へも伝わり、
京の住民の習いとして、「また、帝都に何か大事が
起きるのに違いないぞ」と寄り合ってはうわさしてし
たので、後醍醐天皇も

 「これは、どのような事になるのであろうか」

と、楠木正成を召してお尋ねになられた。正成が申すには、

 「窮鼠(きゅうそ)猫をかむとは、このような状態を指し
ていうものでございます。もしも鎌倉幕府が没落する
以前であれば、何としても東国へ引き返そうとの思い
がありますので、上下共に覚悟を決めて戦うようなこ
とにはならないでしょう。しかし、今では鎌倉がすでに
没落したのを聞いて、逃れることができないのを承知
しているに違いないと思われます。

 そうであっても、宇都宮以外の者どもは恐れるに
足りません。宇都宮の公綱が南都に逃れており、しか
も、彼が最後の合戦をいたすのであれば、一大事に
なろうかと思われます。しかし、謀によりこれを退治しよ
うとなさるのであれば、何とも容易(たやす)いことでござ
います」

とのことであった。これをお聞きになられた帝は、

 「そのような方策ならば、勇士にやってもらうのが
一番よい。正成がこれを計らえ」

との勅諚を下されたのであった。

▽ 宿敵・宇都宮と諸将を降伏させる謀

 楠木は、帝に申し上げた。

 「そうであれば先ず、宇都宮にあてて、『敵ながらも
勇士のほまれ叡感(天皇の御感銘)も浅くはない。召し
に応じて上って参るならば、もとの所領を保障するの
は差し支えない』との綸旨を下していただきとうござい
ます。こうした勅諚(天皇の仰せ)があって召されるの
であれば、北条方を捨てて味方に参ることでしょう。
助けておかれたとしても、宇都宮は血気の勇者にして
正直な性格であり、智に欠ける男なので、野心を抱く
ようなことはありますまい。

 その他の降参する者どもにつきましては、日頃の罪
を許して一命をお助けになられ、『忠があれば賞もあ
るぞ』と下知していただきとうございます。そうすれば、
南都の軍勢は宇都宮の上洛に力を落とし、御許しの
勅諚がなくても逃げ散るものでございますから、まして
御許しがあるとなれば『我も我も』と降参することでしょ
う。そうなれば、関東の諸大将も謀が良ければ、十に
して三、四は生け捕られて参ることになろうかと思われ
ます。」

 これをお聞きになられた後醍醐帝以下、諸卿も

 「みごとな計らいを申された。早速にも正成が出向かわねば」

と仰せられたのであった。

▽ 正成、宇都宮の性格を読んで手を打つ

 正成が続けて申した。

 「先ず、宇都宮への綸旨につきましては、正成が
これを取り扱うならば合戦になって、骸(かばね)を
軍門にさらすことになりましょう。宇都宮は、武勇の
道を心に懸けて、正成には何事につけても負ける
まいと常に意識してきた者でございます。この度は
綸旨であると云えども、御使いが正成であれば、
つまらない強情を張ることでしょう。

 そこで、大手の(正面から向かう)大将を一人仰せ
付けられ、私は搦め手(背後、裏側)から向かい、気
勢をあげて威嚇したる後に、大手の大将から綸旨を
受け取るようにすれば、武家としての面目も保てたも
のと判断して、降参してくる男でございます。」

 帝と諸卿は、「ともかくも正成の考えるとおりにせよ」
とのことで、中院(なかのいん)の中将定平を大将とし
て5万余騎を大和路へと差し向けられ、楠木は6千余
騎で搦手の大将として、河内路から南都へ向かった。

 こうして謀を実行したところ、先ず南都の般若寺の
守りを固めていた宇都宮ら700余騎が綸旨に従って
上洛した。それから先のことは『太平記』に記されたよ
うに、我も我もと降参したのであった。

▽ 正成が二階堂道蘊に与えた勧告

 幕府軍の残党は、宗徒の大将たちと残りの軍勢
3千余騎が東大寺に立て籠もっていた。定平がこれ
を攻めようと云ったが、正成は、

 「ここまできて今更、人を討ったところで何の得が
ありましょうか。謀でいきましょう」

 と云って、「道蘊はかつての朋友である。どうして
見舞わずにおられようか」との理由で、7種の酒と3個
の肴(さかな)を送って、次のことを伝えさせた。

 「今となってはこうするしかないと考えるのでござい
ます。御酒を一つ持参いたしましょう。かつて好(よしみ)
があったことを忘れてはおりません。いつも心に懸けて
おりましたぞ。正成が近年、鎌倉の人々に向かって弓
を引いた事は、神に誓って私の遺恨はございません。
大君の仰せを重く受けとめてこそ、このようにせざるを
得なかったのです。

 さて、一日二日の内には合戦となりましょう。鎌倉では、
相州入道殿(執権・北条高時)が御自害なされたからに
は、今となってはこうするしかないとお思いになられたこ
とでしょう。二階堂の御一門たちも残らず自害されるの
だとお聞きしております。

 大君も御一門たちのことにつきましては、『これといった
不義もない。ただ、高時入道との縁により連座したまでの
こと。何とも不憫(ふびん)なことよ』とのことで、この度の
綸旨があったと、諸卿の中からも漏れ聞いてございます。
また、西園寺公宗殿からお伝えいただいた大君の仰せ
もこのようなものでした。『戦には勝ったのであるから、
あまり厳しい処置をしてはならない』など、こまごまと仰せ
られたので、合戦も今まで延び延びになっておりました。

 皆様方には恐れ多き申しごとではございますが、ご縁
を求めて中院定平卿へ諸事をご内談なされることをお
勧めいたします。由緒正しき二階堂の御一家が、この時
点でことごとく断絶してしまうのはいかがなものでありま
しょうか。」

 そして、最後に

 「ただし、私がこのように申したと、むやみに人に漏らし
てはなりません」

と付け加えて、全てが帝の御発意である、との嘘がばれ
ないように口を閉ざさせたのであった。

▽ 戦わずして人の兵を屈するは善の善なり

 道蘊は、そのとおりだと思って諸大将にこのことを語った
ならば、兵士まで全員が臆病な気持ちになって、

 「とにかく、定平卿へ仰せ入れてくだされ」

などと口々に申したので、阿曾弾正時治が定平卿と少々の
縁があったことから、代表して申し入れたのであった。定平は、

 「こちらに降伏する形をとらないのであれば、どのような返
事を申すことができようか。これでは私的な申し入れにすぎぬ」

と返事もよこさなかった。このことにより、そうであればと大
将13人・侍50余人が『太平記』に記されたように出家することになった。

 正成が申していたことは、夢ほどにも違わなかった。何と
恐ろしい智謀であったことか。

(「柔を以て剛を制するの術」終り)

(以下次号)

(いえむら・かずゆき)

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● 著者略歴

家村和幸 (いえむら かずゆき)
1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

現在、日本兵法研究会会長。

http://heiho-ken.sakura.ne.jp/

著書に

『真実の日本戦史』
⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

『名将に学ぶ 世界の戦術』
⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab

『真実の「日本戦史」戦国武将編』
⇒ http://tinyurl.com/27nvd65

『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
⇒ http://tinyurl.com/6s4cgvv

『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
⇒ http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurananko.html

がある。

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●本土決戦準備の真実ー日本陸軍はなぜ水際撃滅に帰結したのか(全25回)
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●戦う日本人の兵法 闘戦経(全12回)
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 日時 平成26年11月1日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

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 参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料

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 演題 『太平記秘伝理尽鈔』を読む(その8:湊川の戦い・後段)

 日時 平成26年12月20日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)

 場所 靖国会館 2階 田安の間

 参加費 一般 1,000円  会員 500円  高校生以下 無料

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     FAX 03-3389-6278
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