【楠木正成の統率力第22回】急場をしのいだ楠木の智謀

【楠木正成の統率力第22回】 急場をしのいだ楠木の智謀
         

               家村 和幸

▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 今回は、機に臨んで兵や軍勢を勇気づけ、
敵を惑わした、楠木正成の「湧くがごとき智謀」に
ついてのお話を紹介いたします。

 それでは、本題に入りましょう。

【第22回】 急場をしのいだ楠木の智謀

(「太平記秘伝理尽鈔巻第十 新田義貞謀叛事付
天狗越後勢催事」より)

▽ 楠木と筒井・矢尾の対決

 その昔、楠木正成は大和国の住人筒井浄継と遺恨の
事があって、仲違いした。当時はまだ楠木氏と対立して
いた矢尾の別当(第7回掲載文参照)が、折を見て筒井
に誘いがけしたところ、浄継は1千余騎を率いて百日ま
での在陣を条件にやってきた。これにより別当の兵は、
合計して2千余人となった。正成も一門の助力を頼んで
800余騎となり、境の津(現在の堺市)から東、金田
(こんた:現在の堺市北区金岡)の北に一つの城を築いて、
要害をきびしくして陣を張ったのであった。

 国中の軍勢の多くが別当に与力したことから、敵の
軍勢は3千余騎となり、柚頭(ゆかみ:現在の松原市
天美)と神道(かんとう:現在の松原市新堂)という場所
に陣を張った。それぞれの間は、二里(約1.1Km)と
少々離れていた。筒井は正成の勇猛さを恐れて攻め
寄せてこない。正成は、

 「敵は大勢なので、国人は皆、彼に与力したのであ
ろう。どのような謀もあるだろうが、ここは敵の動きに
応じて転化して戦おうと思うので、待つことにいたそう」

 と云ってこちらからは動かなかった。こうして十日以上が過ぎた。

▽ 嘘でも兵士の勇を鼓舞すればよい

 そこで正成は、花田の郷(現在の堺市南花田町)まで
移動し、敵陣近くへと向かった。対抗して浄継も兵を
出してきたが、それは池を前にし、一本の道を中央にして
兵を立たせ、足軽10人から20人を一組にして、4〜5組
を前に出していたに過ぎなかった。

 正成は筒井方の足軽のかけ引きを見て、

 「大和勢の軍は恐れるに足らず。今から各々に手柄を
立てさせてやれるぞ」

と欺(あざむ)いたのであった。実際には足軽のかけ引きが
悪かったのでもなく、また陣の張り方も無謀というほどでも
ない。これは、味方の兵に勇気を奮い起こさせるためだったのだ。

▽ 池近くの兵の配置と戦法

 また、楠木はあることに気づいていた。池の岸が少し高くなって
いたが、岸の上には兵を一人も出していない。岸の向こう側の下
に兵を置いているのは、正成を恐れているものと思えた。また、
兵の配置も池に近い。これは良将のやることではない。正成な
らば、池から一町(109m)か二町(218m)後ろに退いて兵を
備えるに違いない。その理由は、敵が中央の道を越えて来よう
とするのに対し、池のすぐ近くに配置している軍勢は攻めかか
ろうとするにも、その先の距離がない。あまりに近すぎて気おく
れするものである。

 池と池に挟まれた細道を通ってくるような敵は、覚悟を固め
ているものである。このようにして戦う時は、味方が負けるも
のである。また、前を進む敵兵が弱くて、逃げる者があったと
しても、後から続く者が声を発して勇ましく突進してくるので、
意思に反してこちらが備えている軍勢の中に懸け入るもの
である。こうした場合、十のうち九は負けるものである。また、
このように勇気づいた敵の軍勢は、いかにも強いものであ
る。味方がこれと戦ってどうして負けないことがあろうか。

 そうであれば、味方の先頭の備(そなえ)が千であるならば
一町五反(約170m)、二千もあるならば二町まで退いて備え
れば、敵は池の中の道を越えて来て、広い場所へ二十間
(約40m)ほども過ぎて来ようとするところへ、味方の先頭の
備が乱れずにかかり合うならば、必ず勝つことになる。これ
は、盲将の図り知らないところである。良将のみがなせる業
である。そこで楠木は、大和勢の戦術・戦法は感心できるも
のではないと思って、このように述べたのであった。

▽ 備と備の間隔については秘伝

 また、二番目、三番目の備も良いものではなかった。備の
間隔も遠いようであった。備の間隔の遠近については口伝が
ある。将たる者は習得しておくべきことであるぞ。その段階は
様々である。重要な事ではあるがこれをあえて書かない。
小さくして二十間(約40m)、次は三十間(約60m)、謀によっ
ては五町六町(約545m〜654m)、あるいは一里、または
一里半などである。

 正成はこれらのことをよくわきまえた上でこのように言ったのである。

▽ 自軍を鼓舞するための策

 そうしているところに、正成本陣の左側方に旗が風になび
いて立っており、その数およそ500余りもあろうかと見える
敵の軍勢が、味方の陣へ横合いに進んできた。その後ろを
見ると備えも多い。楠木がこれを見て言ったことには、

 「かねてから私が、いつも『四隊の陣(注)』を好んで構えて
きたのは、この時のためであるぞ。敵のように備えている先
に敵がいるとだけ思って兵を配置すれば、最もあわてふた
めくことになるぞ」

と、いつもより愉快げに打ち笑って、池の後方に一町を退け
て配置した軍勢に、軍使を遣わして下知した。

 「この敵が池の中央の道を越えたならば、いつものとおりに
攻めかかれ。遅れて時刻を延ばしてはならない。」

 このように言い伝えて味方を見ると、陣は騒然として、諸兵
が臆している様子であった。楠木は、これでは戦っても不利で
あると思ったのであろう、諸兵に向かって言った。

 「今日、私が軍をこのように向かわせたのは、いつもとは
異なり、敵の中に味方がいるからである。恩地はいるか。
池のこちら側の高い塚のある場所に上って、日を三つあげよ。」

 これを聞いた諸勢は、気をとり直して勇気がわいてきた様
子であった。恩地は、これは合図に違いないと思って、高所
に上って火を三つあげたけれども、こちらに寝返ろうとする兵
は来なかった。

(注)四隊の陣とは、前後左右どの方向にも振り向くことのできる陣形である。

▽ 動揺する筒井の軍勢

 横合いに迫ってきた敵の軍勢は、矢尾の別当、並びにその国の
者たちであった。この火に驚き、

 「この軍勢の中に、おそらく楠木に意気投合している者があるに
違いない。後ろから何者かが敵となって、楠木と力を合わせるの
であろう。これは一大事だぞ」

と考えた。その上、「大和勢が何を思っているのかもわからない」
と面々に思って進まない。

 浄継の兵は、

 「どのような意味ののろしであろうか。全くわからない」

 とささやきあっているうちに時間が過ぎていった。正成は味方
に向かって、

 「今少し火を早くあげてもらえぬか。和田の一勢は虚(そら)く
づれして引いて、敵に見せよ」

と言うと、和田は「承知いたしました」と云って、諸勢にこれを
知らせて、崩れふためいて引いた。これを見た敵の大将は、

 「あれは逃げたふりをしているのであろう古狐に化かされて
たまるか。若い衆で馬をすっ飛ばして見て来い」

と下知したところ、「承知いたしました」と3騎から5騎ずつで打ち
連れて行ったのであるが、矢が届くところまでは来ようとはしな
かった。帰って、

 「あそこのくぼみに軍勢がいるように見えました」

など見てもいない虚言をさも勇ましい顔つきで言ったので、
「そうかもしれない」と、元々が集まり勢なので、一人の頭(かしら)
が率いる小勢が引いて帰るようであった。

 敵が動揺しているのを見て、「さあ、攻めてきなさい」とばかり
に、楠木軍が引いて帰るのを追尾する筒井軍の兵は一人もい
ない。結局、筒井の全軍が足早に引いて帰ることになった。

▽ 急場をしのいだ正成の謀計

 実際に「返り忠」があったわけではなかった。敵が意外にも
後ろに回ってきたので、戦っても不利であると考えて、ただ
引けば敵が必ず追尾してくるのであるから、味方が多く討た
れることになると思って、この謀に出たのだった。

 実は兼ねてから企てていた謀でもなく、事が急を要するに
及んで、にわかに出て来た方策であった。そこで、

 「正成は普通の人ではない。誰よりも戦の謀に賢い男である」

と、後になって人々が語っていたという。

▽ 奇策を秘した楠木の思慮

 この戦から数年が過ぎた後までも、正成はこれを自分の
謀であったとは言わず、

 「人にたぶらかされて、軍に損害を受けてしまうところであった」

とだけ言っていた。その真意は、この後に同じようなことが絶対
にないとは云えないからであった。その時になって、兵に

 「以前にもこのようにだましなされましたな」

などと言われないためであったと思われる。

 何とも思慮が深いのであった。

▽ 筒井と矢尾、互いに疑心暗鬼に陥る

 翌日から毎日、時間を変えて兵を進めては、敵の中に味方が
いるようかのようにだけ見せたならば、いよいよ敵の中に大な
る疑いが出来て、

 「何某(なにがし)が楠木と通じ合っている。誰々が敵に
与(くみ)するだろう」

と恐れ合って、軍の評議もなかった。そこで、口の悪い人々が、

 「国人の何某こそ、楠木と与して、敵になる」

などと噂話をするようになると、その面々は身に覚えがないので、

 「そのような噂を流されるのは、不愉快である。所詮、この戦は
公儀のことでもない。また、楠木に私的な恨みもない。親しいまま
に別当や筒井に話を持ちかけられたまでのことだ。このように
疑われてしまうのでは」

と陣を去って帰った。

 こうして筒井・矢尾の両人に与していた兵は、それぞれに一人
二人と引き、別々に落ちていくようになった。その結果、浄継は
別当を疑い、別当は浄継を疑うようになり、筒井はある夜半に
別当に何も言わずに陣を去って大和へ帰ったので、別当も矢
尾の城に帰った。

 その翌日、正成は兵を出して彼らの陣所を焼き払い、赤坂
に帰ったのであった。

 見事な謀であると云えよう。

(「急場をしのいだ楠木の智謀」終り)

(以下次号)

(いえむら・かずゆき)

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● 著者略歴

家村和幸 (いえむら かずゆき)
1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

現在、日本兵法研究会会長。

http://heiho-ken.sakura.ne.jp/

著書に

『真実の日本戦史』
⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

『名将に学ぶ 世界の戦術』
⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab

『真実の「日本戦史」戦国武将編』
⇒ http://tinyurl.com/27nvd65

『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
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