【楠木正成の統率力第20回】楠木正成の初陣〜攻守逆転の謀

【楠木正成の統率力第20回】 楠木正成の初陣〜攻守逆転の謀
         

家村 和幸

▽ ごあいさつ

 こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。

 楠木正成が数々の合戦で活躍したのは、38歳から
43歳までのわずか5年間でした。それ以前には、
元享2(1322)年8月、紀伊国安田荘の湯浅庄司
(『太平記秘伝理尽鈔』では「安田庄司」とされている)
を討伐したことだけが記録に残っています。そして、
今日では、これが楠木正成の初陣であったとされています。

 『高野春秋編年輯録(しゅうろく)』という書物によれば、
当時29歳であった楠木正成は鎌倉幕府の御家人で
あり、この安田庄司の討伐も執権・北条高時の下知(命令)
によるものでした。この戦いの結果、楠木正成は幕府
から安田の領地を与えられ、朝廷より兵衛尉(ひょうえの
じょう)という官位を授かりました。

 今回は、この楠木正成の初陣について紹介いたします。

 それでは、本題に入りましょう。

【第20回】 楠木正成の初陣〜攻守逆転の謀

 (「太平記秘伝理尽鈔巻第八 摩耶合戦の事付酒部・瀬河合戦の事」より)

▽ 小勢が大敵を倒すには

 少弱の味方を以て強敵に向かうには、「寄せ手、寄せら
るる」という戦法がある。それはどのようのものかと云うと、
大河か沼か、または深山の難所を前に当て、側面に
当てて、攻め寄せるのに不利で、味方が防ぐのに有利
な地形に陣を取り、敵をそこに引き寄せて戦いを決する
のである。謀はいくらでもあるだろう。

 もしも敵が攻め寄せなければ、あるいは敵の配備を
うかがって、足軽を前に出して向かっていくか、あるいは
陣を取りながら攻め寄せるものである。このようにして、
攻めてきた軍勢が、逆に攻め寄せられるようにするので、
「寄せ手、寄せらるる」というのである。

▽ 正成、幕府の下知により安田征伐

 楠木正成が、その昔、鎌倉幕府の下知により紀伊の
安田庄司を退治した。その際、河内・大和・和泉・紀伊の
勢が少々馳せ集まって、2千余人であった。それに対して
安田の軍勢は、玉木・湯川、いずれも縁者であったのが
一所に集まって7千余人であると伝えられた。

 そこで正成は、2千余騎を率いて、安田の陣から四里
(この場合の一里は五町、約2.2Km)ほど手前まで前進
した。そこには深山があり、敵方に一つの川があった。
麓(ふもと)から川端まで六町(約654m)、あるいは四町
(約436m)である。この川は大して大きな河ではなかった
が、大石が多くて水が逆巻いていた。

 楠木が住民を近くに呼んで、「ここの地名は何と云うか」と
問うと、その住民は「ここは勝尾(かつのお)です」と申した。

 楠木は、「名といい、地形といい、いずれも良い陣所で
ある」と言って、手勢600余騎を二つに分けて、200余騎
は嶺々に堅く陣を取らせ、400余騎は麓に陣取らせた。

▽ 徹底して地形を偵察

 正成は、川端に沿って上下二里(約1.1Km)を見ながら、
どこに深田があり、どこに沼地があり、そこに細道があり、
といったことを残す所なく偵察し、その後は前後三里(約1.6Km)
の谷・嶺を見てまわり、茂みの自分が行けない所があれば、
足軽どもを遣わして、これらを見せてから、軍勢の陣を定めたという。

 高い嶺があったので、小賀太郎宗澄(おがのたろうむねずみ)
の200余騎にて堅く陣取り、そこから連なって下る山裾が
小高く平地に突き出た所には、河瀬大夫(かわせのたいふ)・
伊丹十郎兵衛の150騎にて陣を取った。右の山には木沢
入道・村越、内郡(大和国宇智郡)の者ども、300余騎。
麓には、かれこれ1千余騎。合計して2千人には少し足りない
ほどであった。

▽ 地理に精通した者を活用

 敵の配備を見るのに三日をかけた。忍びを潜入させて
敵の陣を見るのであるが、つれて来た河内・津国(つのくに)
の野伏(のぶし=地侍)は、そこの地理を知らないので、半分
は敵陣の近くにも往けなかった。少数の者が敵陣に至ったが、
見てまわることはほとんどできなかった。

 楠木は、「ここの地理に精通した者に道案内してもらわね
ばなるまい」とのことで、

 「我らが扶持(ふち)してきた(=養ってきた)野伏たちの中に、
この付近の野伏どもと知り合いの者はおるか」

と問うたならば、一人の野伏が「私こそ知り合いの者にてござ
います。招いて参りましょう」と申した。正成は、「金銀などの
ことは、望みどおりにいたそう」と云って、当地の野伏に協力
を請うたところ、全部で8人がやって来た。

 楠木が、「あなた方は、この国の地理を十分に知っておられる
ことであろう」と問えば、彼等は「知っております」と申した。
「そうでなければなるまい。こちら方の野伏を連れて、敵の
陣所を見て、還ってきてくれぬか」と云うと、野伏らは、「容易い
ことにございます」と申したのであった。

▽ 漏れのない情報収集と分析

 これにより、宗徒の野伏6人をつれて、敵の陣へ夜中に
忍び入り、日中は敵の陣中に紛れ込んでおり、次の夜に
還ってきて、敵陣の様子を報告した。
 楠木は一人ずつ分けてこれを問うたところ、いずれも同じ
であった。そこで、忍び入った時の様子をも細々(こまごま)と
問うたのであった。

 「敵陣に忍び入る要領について問うのは、何のためですか」
と尋ねると、正成は

 「そうすれば、国々がどのように警戒しているかも聞くことが
でき、また、忍び入るやり方も国々により様々であるのだから、
これを聞いて、その国の忍びを防ぐのに役立たせようとも
思ったからである。さらに、国々の陣取り・忍びの様子をも
知ることにより、新たな謀を考え出す端緒にもなるだろう」

と申したのであった。実に理に適ったことである。

 さて、楠木が「敵の陣には、建物がどれぐらいあるか」と
問えば、野伏が答えて、「大小併せて800以上もありました」
と言った。「陣の取り方は、どのようであるか」と問えば、「大将
の陣は一段高くなっております。城郭も少なくございます。
その外は皆、山にも谷にも陣屋が立ち並んでございます」と申した。

 楠木は、「そうであるなら、紀伊国の武者のやり方は、深く
考えられていない。夜討ちにしてもよいな・・・」と思いながらも
表情には出さなかった。そして、「今一度、侍を敵陣に遣わし
て、十分に偵察させなければ」と思っていたところ、安田のほう
から、楠木勢が少なく弱そうであるのを侮って、一日かけて
押し寄せてきたのであった。

▽ 集まり勢と手勢の違いは「軍律」にあり

 諸国の集まり勢は、取る物もとりあえず、前方の川を越えて
敵と渡り合おうとひしめいたが、楠木の手勢600余騎は、
いつもどおりに軍法を守り、それぞれの陣の前に並んで居て、
大将の下知を待っていた。そこへ楠木が山から下りてきて陣の
前に立ち、山に置いた勢も中腹まで下して控えさせた後、足軽
の勢30余人だけを同行させて川を渡った。

 向こう岸にて敵勢を見ると、7千余騎はあるだろうと思われ、
それらが陣を二つに分けて立てていた。

 正成は諸国の勢を招いて言った。

 「ここまでは、私の手勢の300余騎を川の端から一町
(約109m)付近に配置して、先に七、八町(約763〜872m)
も進んでいる軍勢を収容する(=自陣側に受け入れる)ので、
敵の先陣4千余騎が備えを乱して懸かってくるのを、ひたすら
引きに引いて退却されよ。」

 このように下知して引かせたところ、諸国の勢は、始めは
両方へ分かれて引いていたが、後には蜘蛛の子を散らす
ように、四方八方へ逃げ散った。敵は勝ちに乗ってこれを
追いかけ、味方の300余騎との距離が半分より短くなった。

 この時、正成が300余騎を魚鱗の陣にして攻め懸からせ
ると、先に隊列を乱していた敵は、踏み止まることもできず
に引き始め、後陣が備えを堅くして押し寄せてくるところへ
逃げ込んだので、後陣の備えも乱れ始めて、前進もできなく
なった。これを見て楠木は、川の端に控えていた手勢を招き
寄せると、残る手勢は一斉に川を渡ってきた。

▽ 敵を引き入れ、壊滅)

 当初から山の中腹に控えていた(小賀太郎宗澄の)200余騎
が密集したままで山を降り下ったので、遠くからは雲霞のごとき
大軍勢に見えたのであった。始めの一合戦で散らされた(諸国
の)軍勢も、我も我もと取って返して追い寄せたところ、安田軍
の後陣はこれを阻止しようともせず、ひたすら引く勢になびいて
引いていった。これを諸国の集まり勢が備えを乱して追った。

 楠木の手勢は、前後の軍を乱さずに敵を追うこと二里(約1.1Km)、
討たれた敵は数えきれぬほどであった。

 ひたすら逃げる安田は、本陣をも通り過ぎて、自分の館に
籠ったのであったが、与力していた国人が皆、おのれの館に
逃げて行ったので、主従で80余騎しかおらず、それらは皆、
安田の城にて自害したのであった。

▽ 攻守逆転の謀

 楠木が手勢の備えを残しておいたのは、もしも安田の本陣に
軍勢が在ったならば・・・と思ったからであるが、実際には本陣の勢
も行方も知れず、落ち失せていたのだった。

 この戦いを描いた図がここにある。これが「寄せ手、寄せらるる
(=攻守逆転)」という謀である。

 この度、摩耶城を攻め寄せた佐々木判官時信と常陸前司時知と
いう二人の大将が、こうした謀さえも知らずに、赤松円心の策に
落ちたのは、何と恥ずかしいことであろうか。

(「楠木正成の初陣〜攻守逆転の謀」終り)

(以下次号)

(いえむら・かずゆき)

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● 著者略歴

家村和幸 (いえむら かずゆき)
1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。

現在、日本兵法研究会会長。

http://heiho-ken.sakura.ne.jp/

著書に

『真実の日本戦史』
⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje

『名将に学ぶ 世界の戦術』
⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab

『真実の「日本戦史」戦国武将編』
⇒ http://tinyurl.com/27nvd65

『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
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『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
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