家村 和幸
▽ ごあいさつ
こんにちは。日本兵法研究会会長の家村です。
楠木正成が活躍した元弘・建武の時代には、
武家だけではなく、公家や寺の僧なども鎧に
身を包み、武器を手に戦いに参加していました。
豊臣秀吉による刀狩や、徳川家康による
士農工商の身分制度よりも250年以上も
前のことです。
同じように武装して戦っても、武家とそれ以外
の人々とでは、「本質的な違い」がありました。
それは、今日の軍人と民間人についても全く
共通することです。今回は『太平記秘伝理尽鈔巻第八』
からそのことについて解説している箇所を
紹介いたします。
それでは、本題に入りましょう。
その前に、
▼読者より
楠木兵法をいつも興味深く読んでおります。
特に楠木一党が脚力を重んじて、普段から駆け足の
鍛錬を積んだ等は現在でも陸戦の基礎となる「機動力」
の重視だと思います。
軍記物など読むと〇〇騎などとありますが、これは
やはり歩・騎の集団で上士が騎馬でそれに付随して
徒歩士が相当数含まれたという事でしょうか。
そしてやはり当時は下馬戦闘が主で流鏑馬のような
騎射戦等は非常に希な局面でしたでしょうか。
一度、秋月藩の砲術を拝見した事があります。
現在の火器に比べて牧歌的なものだろうと思いましたが、
かえって相手の顔が見える程の射程、そしてその銃火
に対して刀槍で立ち向かう局面、さらに名乗りをあげて
一騎打ち等は日頃の鍛錬が生半可でないと無理と
思いました。弓・刀槍で戦った当時の武人の胆力に
倣いたいものです。(Y)
【第19回】 武家と庶民の違いは何か
▽ 六波羅探題、摩耶城攻略に失敗
楠木正成が千早で鎌倉幕府側の大軍勢と
戦っていた頃、隠岐の島に流されておられた
後醍醐天皇は島を脱出され、伯耆国(ほうきのくに、
今の島根県)の土豪・名和長年に護衛されて、
船上山を御所とされた。
そこから、後醍醐天皇は諸国の武士へ討幕
の綸旨(天皇からの命令書)を送られ、近国の
武士らが我先にと駆けつけて来た。このことを
知った京都の六波羅探題は、元弘3年(1333)閏2月、
京都に最も近い摂津国(今の兵庫県東部)の
摩耶(まや)城に立て籠もる赤松円心を討伐する
ため、佐々木判官時信と常陸前司時知に48ヶ所
の篝(かがり=京の辻々警固の篝屋に勤務する武士)の
軍勢と、京都に滞在している兵士ら、また三井寺
園城寺(みいでらおんじょうじ)の法師ら300余人らも
従軍させ、総勢7千余騎で摩耶山に向かわせた。
軍勢は閏2月11日、卯の刻(午前6時頃)に
摩耶城の南側の麓から攻め寄せた。
円心は弓部隊の足軽200人を麓に下ろし、遠矢を
少しばかり射込んで城に引き上げさせた。これを
追った寄せ手(攻撃軍)は、七曲と言う険しく狭い
場所におびき寄せられ、坂道で人馬が我先にと
もみ合って登っていた。
そこへ円心の息子らが率いる小勢が激しく矢を
射込んできた。寄せ手軍は完全に奇襲され、互いに
人を楯にして、その陰に隠れようと慌てふためいた。
さらに赤松の軍勢500余人が側面と背面から
切り込んできたので、寄せ手軍は後方から崩れだして、
潰走した。逃げ道は深い田んぼや茨(いばら)が
生い茂る野に挟まれた一本道であり、途上でも
多くの兵が討たれたのであった。
▽ 円心3千騎に六波羅7千余騎は少なすぎる
(以下、「太平記秘伝理尽鈔巻第八 摩耶合戦の
事付酒部・瀬河合戦の事」より)
この戦いで、北条仲時・時益(ともに六波羅北・南両探題)
自らが向かっておられたなら、軍兵はおよそ4〜5万騎
はあっただろう。これを二手に分けて、2万余騎は摂津
から向かい、2万余騎は丹波路から三草山を超えて、
赤松の後ろを遮り、播磨(今の兵庫県西部)へ乱入
すれば、赤松は亡んでいたものを、そのような智謀が
なかったのは何ともつたないものだと云えよう。
また、佐々木時信らに京の辻々を警固する武士、
在京の集まり武士、三井寺法師などを駆り集めて、
7千余騎にて摩耶へ向かわせたのは、大なる過ちで
あった。赤松の3千余騎は、全て精兵たちである。
少なくとも、1万余騎で向かうべきだった。多ければ、
1万5千余騎ほどが望ましかった。
▽ 武士にあって郷人にないものは、「智謀」と「将」
もしも郷人(村人、町民など)1000人を以て、
武士100人に対して戦わせれば、武士がいとも簡単
に勝つであろう。
郷人にも力量の優れた者はいるであろう。また、
剛毅な心の者もあろう。あるいは、武家にも力量の
劣った者もいるだろう。また力量は優れていても臆病
な者もあろう。それなのに何故、1000人の大勢でも、
武家の100人に負けてしまうのだろうか?
その理由を考えてみると、二つのことが云えるだろう。
一つには、武家は職業として朝夕に武をたしなみ、
郷民は武を学ばない。これゆえに武道(=武術と兵法)の
智謀が劣っている。
二つには、武家には独りの将がいて、兵は皆その命令
を重んじる。郷民には将がいない。将がいなければ、
戦における進退も鈍重である。鈍重であれば、勝つこと
は少なく、負けることが多い。これは「異体同心」では
ないからだ。
▽ 武士として心得ておくべきこと
これゆえ、武家に生まれた者は、その道(すなわち、
武術と兵法)を知らないことを大いに恥とすべきである。
武道を学ぶというのは、将は武の七書(注)を熟知して、
謀を好み、勝てる見込みのある戦を失敗せず、上手く
いかなければ、兵を引いて早く退き、敵の油断を突いて、
味方の作戦を練ることを怠らないのを云うのだ。これを
以て「表」とし、太刀打ち・弓馬・早業・力業・山岳の険難
を走っても疲れない。これらを以て「裏」とするのだとされている。
また、兵は将の「裏」を以て「表」とし、「表」を以て「裏」と
するのである。
武家に生まれた人は、その道に励まずして、何の役に立つ
というのか。実に恥ずかしいことではないか。その上、武道
を知らないような士は、少なくとも家を失い、大なるは国を
亡ぼす。心得ておくべきことである。
(注)七書とは、『孫子』、『呉子』、『司馬法』、
『尉繚子(うつりょうし)』、『李衛公問対』、『黄石公三略』、
『六韜』のことをいう。
▽ 将たる者の宝「慈悲」「勇気」「智謀」
源義家朝臣が語られたことには、
「将のたしなむべきことは三つある。一には慈悲、
無欲にして下民を憐れみ、二には勇気。三には智謀。
この三つを兼ねている将は、古今に稀であろう」
ということである。実に義に適った言葉である。
将が自分のことだけを思って下民を育む心が少なければ、
下の者は疲れて将を恨むようになり、下知(命令)しても
従わない。将に勇気がなければ、一つの作戦の失敗に
より、勝てるような戦にも勝てなくなる。将に智謀が
なければ、部下の善し悪しを見分けられない。また勝つ
べき道理をわきまえず、兵をうまく指揮・統率することも
できない。「慈悲と勇気と智謀」、この三つを知ることが、
将の宝であらねばならない。
武家に生まれた者が、その道を知らなければ、郷民と
同じである。
また、諸国から寄せ集めた軍勢を率いて戦に赴(おもむ)く
のは、兵としてはあまり期待できないが、郷民よりはまし
であろう。誰もが武家であるからには、おそらく合戦の
やり方も知っているからである。それでも、昔から代々
仕えてきた将ではないので、将の下知を重んじない。
重んじないので、軍の進退が鈍重になる。このことから、
あまり期待できないのである。
▽ 寺の法師や駆り集めの兵では、赤松勢と戦えず
三井寺法師は、軍というものを全く理解していない。
郷民とほとんど同じであろう。あの寺の法師らは、近年
は武術を習っており、その点では郷民に勝っている。
しかしながら、法師というものは自分勝手に行動し、
むしろ郷民よりも将を侮るものである。このように、
それぞれの優劣を入れ合わせれば、法師も郷民も
大差ないのである。
その他は諸国から駆り集めた兵なので、(佐々木時信ら
が率いる)7千余騎は、赤松の兵1千騎にも値しないの
ではないだろうか。これらを以て円心を退治しようとする
のは、「卵を以て石を砕こうとするに等しいものだ」と
云われていた。
(「武家と庶民の違いは何か」終り)
(以下次号)
(いえむら・かずゆき)
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● 著者略歴
家村和幸 (いえむら かずゆき)
1961年神奈川県生まれ。元陸上自衛官(二等陸佐)。
昭和36年神奈川県生まれ。聖光学院高等学校卒業後、
昭和55年、二等陸士で入隊、第10普通科連隊にて陸士長
まで小銃手として奉職。昭和57年、防衛大学校に入学、
国際関係論を専攻。卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長、
情報幹部、運用訓練幹部を拝命。
その後、指揮幕僚課程、中部方面総監部兵站幕僚、
戦車中隊長、陸上幕僚監部留学担当幕僚、第6偵察隊長、
幹部学校選抜試験班長、同校戦術教官、研究本部教育
訓練担当研究員を歴任し、平成22年10月退官。
現在、日本兵法研究会会長。
http://heiho-ken.sakura.ne.jp/
著書に
『真実の日本戦史』
⇒ http://tinyurl.com/3mlvdje
『名将に学ぶ 世界の戦術』
⇒ http://tinyurl.com/3fvjmab
『真実の「日本戦史」戦国武将編』
⇒ http://tinyurl.com/27nvd65
『闘戦経(とうせんきょう)─武士道精神の原点を読み解く─』
⇒ http://tinyurl.com/6s4cgvv
『兵法の天才 楠木正成を読む (河陽兵庫之記・現代語訳) 』
⇒ http://okigunnji.com/1tan/lc/iemurananko.html
がある。
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●本土決戦準備の真実ー日本陸軍はなぜ水際撃滅に帰結したのか(全25回)
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【第18回 家村中佐の兵法講座 −楠流兵法と武士道精神−】
演題 『太平記秘伝理尽鈔』を読む(その7:湊川の戦い・前段)
日時 平成26年10月12日(日)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
場所 靖国会館 2階 田安の間
参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
【第21回 軍事評論家・佐藤守の国防講座】
演題 UFOから知的生命体へ ─ 広がりつつある「未知の世界」
日時 平成26年11月1日(土)13時00分〜15時30分(開場12時30分)
場所 靖国会館 2階 偕行の間
参加費 一般 1,000円 会員 500円 高校生以下 無料
お申込:MAIL info@heiho-ken.sakura.ne.jp
FAX 03-3389-6278
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