【日本語世代の台湾人】私達と日本語

【日本語世代の台湾人】私達と日本語
                             林陳 佩芳

台湾が日本の植民地だったとき、私たちは日本国民だと、日本語を「国語」として教えられ、国語を話すことを要求され、奨励され、家庭内で日本語を常用するものは、「国語の家」と言われました。

終戦後、祖国中国の統治を受けるようになると、今度の国語は「北京語」です。昔国語の家に育った私たちは、今度は北京語と台湾語を常用することになりましたが、台湾語は先祖代々の言葉、たやすくその環境にもどれましたが、北京語は遥か北方の言葉、直接社会との接触の少ない家庭主婦は、生活の必要に迫られず、すぐには話せませんでした。それでも子供たちの進学と共に、子供達の口から、北京語は家庭内に持ち込まれ、家庭主婦たる私たちも、だんだん北京語がわかるようになりました。

中国大陸から来た人達は、多かれ少なかれ日本軍のために、心身を傷つけられたことのある人々です。台湾人が、日本語を使うのを聞くと、あからさまに憎悪の情を表し、叱り付けたり、にらんでいく人もありましたし、公然と新聞や雑誌で非難する人もありました。祖国中国の懐にかえったのに、いつまでもかつての統治者の言葉を話すのは、彼らにとってきっと耳障りだったのでしょう。それ故に私達は公の場所では、つとめて日本語を使うのを遠慮しましたが、家の中では、同じ日本教育を受けた者同志、つい日本語が交じります。

その結果、私達の年輩の人達は、北京語、台湾語、日本語の交じった会話が、何時の間にかこの三十余年の言葉になりました。それ故私達の子供達も、日本語は話せずとも、簡単な単語はいくらか知り、知らず知らずのうちに使用していることがあります。時々町を歩いていたり、市場などで、日本語を知らないはずの人達が、話す中に日本語を交えているのを聞くと、オヤッと振り返ってみたりします。

テレビの影響力は強く、その普及と共に私達の北京語も上達し、見、聞き、話すことも、一応不自由しなくなりました。家を離れて勉学中の子供達との文通も、一応意識が通じるほどの中国文が書けるようになりましたが、台北方面の多くの家庭は、日用語が殆ど北京語です。

近年は、日本とは国交断絶をしましたが、お互いに関係を持っているので、観光、貿易、或いは学術上の必要から、若い人達も第二外国語として、英語の次に日本語を学ぶ者が多くなりました。

今年の初め、満二歳に満たない孫が、二ヶ月近く日本に滞在して、帰国しましたら、なんと日本語を上手に話すのです。びっくりしました。しかし大部分のお話しには、台湾語をちゃんと忘れずにいてくれています。日本から帰った日、独りで遊んでいた孫が「オウマチャン トウ シチャッタ」と言いました。私は何のことかとキョトンとしました。私が不審に思っているので「アマァ オウマチャン トウ シチャンッタヨ」と二、三回言いました。彼の目の前に倒れている玩具の小馬を見て、彼が何を言っているのか判りました。「トウ」は倒れるの台湾語で、孫はお馬が倒れちゃったと、私に言ったのです。彼はまた日本語の祖母は「バアチャン」で台湾の祖母は「アマァ」だとはっきり区別しています。また我が家のダックスフンドが小犬を産んだとき、「シャオ コウチャン」「シャオ コウ チャン」と大喜びで小犬を抱いたり、さわったりするのです。シャオコウは小狗の北京語で、小さい者はチャン、可愛いものはチャンと呼ぶのだと、ちゃんと知っているようです。

テレビの広告を見ては、その歌を真似る幼児ですが、将来この子達は、北京語、台湾語、英語、日本語を使っている親たちよりも、もっと多くの言葉を使用することでしょう。

<久しぶりに啄木歌集を手にして>
夢にまで見たとは言わないが、従兄何金生氏夫婦と、親友の兄上にすすめられ、励まされて、「三十一文字」に感情や景色、遭遇などを表すことを試みて以来、久しく忘れていた啄木の歌がしきりに懐かしく思い出され、その歌集を今一度読んでみたいと思うようになった。

思えば久しく忘れもし、ご無沙汰もしていた「和歌」である。戦時中の女学生だった私達は、作文の時間に先生から「五、七、五、七、七」の口調を教えられ、何度か作らされたと覚えている。和歌のうわべしか本当は知らないのだが、それを長年「生活の芸術」として「和歌」を作っている従兄夫婦からしきりにすすめられた時、私はちゅうちょした。

終戦後祖国中国に管轄されて三十余年、私達は自分の先祖の言葉、文化を理解することに努力した。
学業を終戦前におえているので国語(北京語)は一応、見、聞き、話せても。書くことは難しく、充分には意志表示が出来ない。もし詩や歌を詠むのなら、中国字で、中国の詩を!歌を!作ってみたいものだと私は良く思うのだが、残念ながら心余りあれど力足らず、漢文の基礎のない悲しさ、やはり漢詩の出来ない自分である。それに純粋の日本語とは三十余年ご無沙汰をしている。

しばらく躊躇した後物は試しと、忘れていた日本語を、一生懸命思い出しながら、指折り作ったのが、父の一周忌の礼拝を詠んだ和歌で、台北からの帰りの汽車の中で、窓外に眼をやりながら、心の中で言葉探しをし、指を折りつつ字数を数えて作ったものである。そばに座っている夫は、口を動かしてブツブツ言いながら、しきりに指を折っている私の姿に「どうしたの?」と聞いた。私は「いいえ、別に」と答えただけで夢中だった。そして父の一周忌の一ヵ月半後、今度は亡き次女の命日に、私は娘を偲び悼んで、また指折りつつ何首かをつくった。皮肉なことに娘がこの世を去った日は、私達をこよなく愛してくれた父の誕生日だった。だから父亡きあと、娘の命日は父の誕生日にもなるのである。この私にとって万感迫り感慨無量の日、その気持ちを何首かの和歌にうたってみた。こうして私は和歌を作り始め、その作品を求められるままに、従兄夫婦に見せて指導と批評を頼んだり、親友の兄上にも見ていただいたりした。嫂上は啄木の和歌を何首か写してくださった。私は実はそれで啄木の和歌を思いだしていたのだった。もう一度啄木の歌をもっとたくさん詠んでみたい。


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