「ベクトル21」9月号より転載
中国問題研究家 鈴木 上方人(すずき かみほうじん)
周永康・前中国政治局常務委員が摘発されたことに関連して、中国政治に関する憶測が世界中に飛び交っている。確かに、「反腐敗」という名の下での権力闘争の軍配は、今のところ習近平に上がっているだろう。問題はこれからどうなるのかだ。習近平は周永康の摘発で停戦をするのか、この勢いを乗じて勝利を決定的なものにするのか、それによって敵陣営である江沢民一派の動きも変わってくる。これからの変化は習近平個人の意志に関係なく発展し、神のみぞ知ることである。
●腐敗は中華文化
中国では「無官不貪」という言葉がある。それは汚職をしない役人や政治家は存在しないという意味だ。中国政治の世界では、汚職をしない人間は存在できない構造になっている。どんな下級役人であっても、まず自分を保護する集団に入らなければその世界では生きていけない。そのためには汚職をして自分より上のボスに上納しなければならず、この仕組みを分りやすく言えば、マフィアの世界とまったく同様のものだと言えよう。これも華麗な外観に包まれている腐臭極まりない中華文化の一部であろう。
ゆえに「反腐敗」とはあくまでも政治闘争の道具に過ぎず、本気で腐敗を一掃する中国の統治者は存在するはずもない。ところが、一見温厚そうな習近平が国家主席に就任すると、夥しい数の官僚や政治家を摘発し、投獄、処刑した。「習近平は本気だ」と真顔で解説する「中国問題専門家」も少なからず存在し、確かに今のところの習近平には「大トラ・周永康退治」で幕を下ろす気配はなさそうである。しかし村の役人から一国の指導者に上り詰めた習近平はナイーブな理想家ではない。彼が本気で中国の腐敗を一掃するとは到底考えられないのだ。ならば、彼の意図とは何か。
●凡庸だからトップになれた習近平
習近平の意図を詮索する前に、まず何故彼が中国のトップになれたのかを考えなければならないだろう。習近平が中国共産党総書記に選ばれた最大の理由とは、敵が少ないという一点のみであった。分りやすく言えば、彼は能力や指導力で選ばれたのではなく、消去法で選ばれたのだ。とは言え、生き馬の目を抜く中国の政界において、果たして敵を作らない術は存在するのであろうか。実際、中央入り前の福建省、浙江省、上海市のトップを務めた習近平に政敵は存在しなかった。だがその一方で目立った業績もない。習近平と言う人物は平凡すぎて誰の脅威にもならず、敵も存在しなかったようだ。
●まともに受けた教育は小学校まで
開国の元勲で改革派とされる習仲勲の息子として生まれた習近平は、父親と一緒に生活する期間がほとんどなく、思想的に影響を受けたことはない。文化大革命のときに、習仲勲は反動分子として糾弾され、当時中学生の習近平も反動学生として延安に「下放」(追放)され、7年間農民たちと一緒に労働生活を送った。後に中国共産党への入党を許された習近平は、更に党の推薦により工農兵学員として1975年10月に清華大学の化学工学科に入学した。しかしその大学生活も清華大学で始まった反右傾運動と重なったため、知識探求の面ではほぼ空白のままに終わってしまう。
習近平の最終学歴は清華大学法学博士なのだが、1998年から2002年までに清華大学の大学院に在籍したとしているその期間は、福建省代理省長を経て省長を務めていた。二千キロ以上離れている清華大学に通えるはずもなく、福建省江夏学院の劉慧宇教授に論文を書かせ、「中国農村市場化研究」をテーマとした博士論文を提出して学位を取得した。この一連のことで分かるのは、博士学位を持っている習近平がまともに受けた学校教育は小学校までだということである。
もちろん大学院までの学校教育を受けたとしても学識があるとは言いきれず、また学校教育を受けずとも深い知見を有する人が多くいる。だが、権力を使ってまで学位を手に入れようとする人間は、ほぼ例外なく学識も教養も持ち合わせていない人間なのである。習近平には、中身がないが故に学歴などの外面的な飾りがどうしても必要なのだ。実際に習近平のスピーチを聞けばそれがよく分る。官僚の書いた味気ない原稿を棒読みすることしかできず、原稿なしの談話では俗っぽく聞くに堪えない無教養なものばかりなのである。
●毛沢東になろうとしている習近平
権力の座につくと無能な人間ほど凶暴な独裁者になることは、歴史が教えている。無能な人間は、嫉妬心や劣等感が権力と比例して増強し、そのため権力への執着心も強くなりがちである。習近平も例外ではない。習近平は薄煕来のような魅力的な野心家でもなければ、李克強のような知識豊富な努力家でもない。中央政治局委員に昇進するまでの習近平は凡庸の代名詞そのものであり、話題になるのは有名歌手である彭麗媛を妻にしたことぐらいであった。勘違いをしてはいけないのは、習近平は爪を隠した有能な鷹などではなく、平凡な鳶だという事だ。
そもそも反腐敗キャンペーンとは政権交代ごとにやる中国の慣例行事である。だから江沢民も胡錦濤も政権発足当時には反腐敗キャンペーンを権力固めの道具として使っていた。反腐敗とは本気でやるものではなく、一つの儀式でしかないことは中国人なら誰しも心得ていることなのだ。ところが習近平は反腐敗キャンペーンを更に拡大する意欲を内外に示している。自らをトップとして「中央国家安全委員会」と「中央全面深化改革領導小組」を設置し、権力強化を図っているのはそのためだ。この屋上屋を架す組織は習近平の権力に対する執着を象徴している反面、己の自信のなさをも反映している。
周永康という巨悪を摘発することは確かに当面の勝利を意味すると同時に、国民の政治腐敗に対する不満の解消にもなる。しかし忘れてはいけないのは、習近平は中国の改革者になろうという意思は全くなく、それどころか毛沢東のような絶対的独裁者になろうとしているという事だ。習近平は内部では言論統制を強めて、民主化運動家や少数民族に対する迫害をし、外部に向けては軍事力を背景に紛争を起こしている。
敵が少ないが故に指導者にと選ばれた習近平だが、今は無闇に敵を作って凶暴な独裁体制を突き進んでいる。これも歴史の皮肉なのであろうか。