【戦う日本人の兵法】闘戦経(4)

【戦う日本人の兵法】闘戦経(4)
  

 軍事情報別冊より転載  

                           家村和幸

▽ごあいさつに代えて 〜兵法とは何か〜

 日本兵法研究会の家村です。前回(第三回)では、シナ兵法と日本兵法の本質的な違
いについてご理解いただけたかと思います。

 さて、孫子・呉子を始めとするシナの兵法や、我が国における山鹿流兵法、楠流兵
法、甲州流兵法など、兵法という言葉は古くから用いられていますが、この兵法につい
て明確に定義したものはありません。これを定義するにあたっては、まず「なぜ兵法を
学ぶのか」という目的から考えてみましょう。

 兵法を学ぶ目的、それは「戦(いくさ)とは何かを知り、戦に勝つ」ということに尽
きます。そこで、私は兵法を「戦略、戦術、戦法及び統帥を包含した戦(いくさ)に関
する最も大きな学術の概念」と捉えることにしています。

 いかなる場合にも「戦」とは、常に「我」「敵」「時間」「空間」の4つの要素に支
配されます。つまり、我にとって「戦」とは、与えられた時間と空間の中で、敵の戦力
に作用されつつ我が戦力を創造し、発揮することです。そして、戦略、戦術、戦法の
違いとは主として戦いの主体となるレベルの時間的・空間的な大小です。

 具体的には、国家〜総軍〜各級部隊(軍団・師団・旅団・連隊・大隊・中隊・小隊・
班など)〜各兵士・各武器とその時間的・空間的な規模は縮小していきます。従って、
戦略、戦術、戦法は「我」のレベルに応じて概ね相似形をなすものですが、そのアウト
プットはいずれも「具体的な方針と行動」です。つまり、これらは全て「実行」を伴う
ことが大前提であり、空理空論では全く意味をなさないものです。

 戦略は、敵に勝つための大局的、総合的な方策や策略であり、戦術レベルの行動に目
的と方向性を与え、作戦単位部隊(軍団・師団等)の基礎配置を決定するもので、主体
のレベルに応じて「国家戦略」「軍事戦略」「作戦戦略」があります。

 戦術は、個別の作戦・戦闘において、状況に即して任務達成に最も有利なように、作
戦単位部隊(軍団・師団等)以下の戦力を敵部隊に向けて直接的に発揮するための術策
(作戦・戦闘を実行する術)です。敵と我の「進む」「止まる」「退く」といった行動
に応じて「攻撃」「防御」「退却」などの各種戦術行動に区分されます。このように、
戦術は戦略上の決定に基づく空間と時間の範囲内で採用する一時的な手段ですので、そ
の時の状況により常に変化します。

 戦法は、戦略・戦術上の決定を受けて、戦闘の各局面で効果的に敵を破砕し、より多
くの損害を与えるように創出された具体的な戦いの実行方法です。

 さらに、統帥は、指揮官の戦略・戦術上の考えを意志の自由と本能を有する人間に応
用して実行させることです。良好な統帥は、有形無形の戦力を集中して敵軍に指向し、
戦略・戦術の実行に最大の効果をもたらしますが、無形戦力、特に精神的要素が勝敗を
決する重要な鍵であることは、古今東西の戦史が教えるところです。

 私は自分なりの研究を通じて、戦略、戦術、戦法という用語が内容的に「概ね相似形
をなす」ものと捉えることから、これら戦略、戦術、戦法と統帥を全て併せた概念を
「兵法」と定義するのが最も妥当なものであろうと考えております。そして、これを真
剣に学ぶことが戦に勝つことへと繋がるのです。

 さて、それでは本題の「闘戦経」に入りましょう。今回は、戦略レベルの大部隊の本
質などについて解説いたします。

(平成23年9月14日記す)

▼魚の鰭と蟹の足

魚に鰭有り蟹に足有り。倶に洋に在り。曾て鰭を以て得と為さんか。足を以て得と為さ
んか。
(闘戦経 第十五章)

 魚には鰭(ひれ)があり、蟹(かに)には足がある。ともに広い海の中で棲息してい
るが、あえて問うならば魚の鰭のほうが得であろうか。それとも蟹の足のほうが得であ
ろうか。

水中での速さや行くことの出来る範囲を考えるならば、どこまでも自由自在に泳ぎまわ
り、深海にも達することができる魚の鰭のほうが圧倒的に勝っていると言える。

一方で、蟹は足を以て陸地をも歩き、水中にも入ることができる。海中においても、蟹
の足は岩の下、狭い岩と岩の間、浅瀬や波打ち際等、魚には行けない場所でも自由に這
い回ることができる。陸との連接部や各種の海中地形への順応性に関しては、蟹の足の
ほうが遥かに勝っていると言えるだろう。

このように、鰭と足とではそれぞれに長短利鈍がある。魚と蟹では、天から与えられた
姿形や能力は大きく異なるが、それぞれの特性を生かした生息の形態をとりながら同じ
海中において共存しているのである。それでは鰭と足のどちらが有利であるかと考える
ことにはどのような意義があるのだろうか。

ここで水中における魚と蟹の関係を陸戦における騎馬と歩兵の関係に置き換えてみる
と、それぞれの特性が極めて類似していることがわかる。騎兵と歩兵もそれぞれに、鰭
と足との場合と同じような長短利鈍がある。歩兵は騎兵の速度や行動範囲には遥かに及
ばないが、一方で山地や渓谷、急崖、泥濘地等のあらゆる地形を踏破できるのである。

戦にあっては、騎兵か歩兵のいずれか一つだけで戦うことは通常有り得ない。戦場の地
形や敵の編成等に応じて騎・歩それぞれの特性をよく生かした用兵を考えなければなら
ないのである。近世以降はこれらに砲兵や工兵が加わり、近代になって航空兵も現れた
が、それぞれの兵科の特性をよく理解して、その能力を十分発揮させるためにも「この
ような場合はどちらが得か」という比較の観点で考察することは常に重要である。

天の意思が地上の万物に何を与え、何を期待しているのか、これを達観することができ
れば、未だかつて天与に不公平なものは何もないという事が分かる。それにより各々が
天から与えられた分を弁え、生きる喜びを感じつつ、持てる能力をさらに伸ばし養い、
共に棲む世界に貢献するため最善を尽くすようになる。

▼大軍の運用は進止のみ

軍なるものは、進止有りて奇正無し。
(闘戦経 第十七章)

 進止は軍の未発にして本であり、奇正は軍の既発の業にして末である。すなわち、軍
のような大部隊の運用は、進む・止まるが基本であり、奇・正は瑣末なことなのであ
る。

 軍とは多勢の兵士、武器や車両により編成され、一人の総指揮官(軍司令官)に率い
られて戦を計画・実行する戦略単位の大部隊である。軍司令部の配下に軍団・師団・旅
団のような戦術単位部隊を複数有する。

 未だ軍を発進していない裡に見積り、計画して勝算がある時は進んで軍を発し、そう
でない時は守勢となる。これが進止であり、初めの始である。

奇正とは、奇兵と正兵のことであるが、所詮は戦場における小業に過ぎない。正面から
敵に向かい、あるいは対峙する正兵に対して、奇兵は横を撃つかと見せて後にまわり、
伏兵を設けて不意を衝き、右と見せて左にかかり、退くと見せて進み、弱兵と見せて敵
の警戒心を緩めさせ、多勢と見せて敵の気を引き、反対側から圧倒するなどにより変幻
自在に戦う兵である。

戦の初めに軍全体の作戦をしっかり計画していれば、奇正は自らその中にある。つま
り、軍が進止いずれかを発した後に、戦場において奇正を用いるのは師団・旅団や、そ
の配下にある末端の中・小部隊である。

師団・旅団が行う戦術規模の作戦においては、各級指揮官の采配に従って前進し、機動
して敵を攻撃し、又は有利な地形上に拠って防御する。通常退くことは無いが、真にや
むを得ない場合には敵の前進を遅滞して時間を確保するために退却することもあり得
る。

これに対し、連隊や中隊以下が行う個々の戦闘においては、必要に応じて退いて敵を罠
に誘いこんで討つような戦法を採用し、あるいは欺瞞や陽動を多用し、積極的に敵を欺
き、さらにはゲリラ戦、遊撃戦のような奇正を用いることも多々ある。

こうした配下の部隊による作戦や戦闘も、軍全体から見れば戦略上の攻勢・守勢作戦中
の一コマにすぎない。即ち、国家レベルの戦争や戦略レベルの会戦においては、軍は常
に正々堂々と大義名分を明らかにし、正しい道理と実力を以て進み、時には機によって
止まる事があるが退く事は無い。ましてや表裏を以てかけひきをするような奇正を適用
すべきではない。

通常、奇正は実力を以て理詰めに戦っては勝つ見込みがない場合や、危害を被ることを
懼れる場合に用いるものであるが、孫子では「兵は詭道なり」として、奇正の理をあら
ゆる規模の戦いに適用すべきと説いている。これでは、軍といえども大義のために戦う
よりは、ただ勝つために戦うことに終始してしまう。それゆえに、「兵は不祥の器な
り。君子の器に非ず(老子)」として殺戮的で不吉なものにならざるを得ないのであ
る。

▼立派な軍隊の条件

将に胆有りて軍に踵(きびす)無きものは善なり。
(闘戦経 第二十章)

 主将に胆力があり、動きが機敏で、全ての兵士や部隊が勇猛果敢にして規律厳正であ
れば、戦場に余計な踵(=足跡)を残さない。これが立派な軍隊である。

主将は全軍を統率し、全ての兵士や部隊の模範であらねばならず、この主将に胆力があ
り、勇猛果断であり、全ての部下がこれによく従えば、いわゆる勇将の下に弱卒なしと
いうことになる。

胆力が大なる者は、驚いたり畏れたりしない。主将に胆力があり、いかに厳しい状況に
あっても平常心を失うことなく適時適切な決断ができれば、このことが全軍の胆力と
なって軍紀にも良い影響を与え、離合集散、動静終始が主将の意のままになる。指揮下
部隊もまた主将の意思や考えをよく理解し、これに沿って自ら判断して行動でき、その
結果、兵士や部隊に無駄な動きが無く、極めて早く敵を破りながらも足踏みしたり、踵
を返す(反転する)ことがないので戦場に余計な足跡を残さない。

こうした軍は、戦いの中にあっても踵を連ねる援軍を必要としない。地形や戦力上有利
であれば、最初の戦いで敵を撃破し、降伏させる。地形や戦力上不利で、敵の抵抗が激
しくとも、みだりに援軍を頼まずに自らこの難関を打開しようと努める。さらに圧倒的
に優勢な大敵に会って孤軍奮闘することとなっても、壮烈なる玉砕を遂げるまで、潔く
戦い続けるのである。

戦場を焦土廃墟と化するような災禍は最小限に抑え、努めて早く終わらせるためにも、
我が真鋭無比なる大軍の稜威をもって敵を手向かうことなく屈服させ、帰順させるに努
める。一方で、降伏した敵は丁重に扱い、敵の捕虜を労わり、死傷者は敵味方の分け隔
て無く手厚く弔い、看護する。これを恩威並び行われる軍という。

戦いが終わり、敵地を占領支配するにあたっては、全軍の将兵が威厳を持って行動し、
戦災の復旧に努め、敵の捕虜を労わり、一切の侵略掠奪を行うことなく、兵乱戦禍の痕
跡を残さない。これが優れた軍隊である。

これに対して、主将に胆力が無く、敵の動きに翻弄され、平常心を失い、遅疑逡巡して
いると兵士や部隊は右往左往することになり、その結果余計な足跡を数多く残すことに
なる。このような軍隊は士気も低く、規律も乱れ、孫子のいう「侵掠すること火の如
し」のように侵略掠奪をほしいままにするのである。

▼蝮蛇の毒を生ず

先ず翼を得んか。先ず足を得んか。先ず觜を得んか。觜無き者は命を全うし難し。翼無
き者は締を遁れ難し。足無き者は食を求め難し。嗚呼我是を奈何せんや。却て蝮蛇の毒
を生ず。
(闘戦経 第二十一章)

 翼は飛ぶのに便利であるから先ず翼を得ようか。足は走るのに都合がよいから先ず足
を得ようか。嘴(くちばし)は物を啄むのに具合がよいから先ず嘴を得ようか。嘴の無
い者は命を全うし難い。翼の無い者は締(わな)を遁れ難い。足の無い者は食料を求め
難い。さてさてどうしたらよいか・・・。

 これは、兵法を学ぶ者が陥りやすい考えである。

 翼と足と嘴は、鳥の生存のために必要な利器である。人が鳥のような自由自在を求め
ようと欲するとき、翼と足と嘴の三つを得ることを望む。しかしながら、これら全てを
備えることは、求めたとしても実現が極めて困難である。そうだからと言って僅かにそ
の一つだけを得ても鳥としての用は果たさないものである。それではどのようにしたら
よいのであろうか。

 あの蝮蛇を見よ。猛毒があるために人々は恐れて近寄らない。翼も足も嘴も無いけれ
ども、命を全うし、食料を求め、しかも締に掛かる心配もない。それゆえ、「其の外を
求むるより一毒を求むるに如かず」といわれている。

 現代における軍隊は、空を飛ぶ飛行機や、陸地を駆け回る戦車や装甲車、海を行く軍
艦や潜水艦、戦力を維持するための兵站等を揃えなければ作戦・戦闘を遂行できない。
しかし、これらの兵器や物資において圧倒的な量を有する敵が攻めてきて窮地に陥った
場合、いかにすべきであろうか。このような時こそ、かえって毒蛇が飛びかかり、喰い
つき、猛毒を発するように、捨て身の一撃で一挙に敵を倒すべきである。

このようにして死地に陥った場合にも怯えることなく、落胆せず、積極果敢に戦うこと
ができるように、日ごろから心と体、特に「国防精神」を十分に鍛えておくことが何よ
りも重要である。

 兵法を学ぶ者は、同時に多くのことを求めるのではなく、求めて修めるべき一つを知
り、それをしっかりと身につくまで求めなければならない。

(以下次号)


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