【台湾独立建国聯盟日本本部】2・28事件について

【台湾独立建国聯盟日本本部】2・28事件について
【台湾独立建国聯盟日本本部】2・28事件について

台湾独立建国聯盟日本本部では、本年(2021年)2月28日に予定していた「台湾2・28時局講演会」をコロナ感染防止の観点から中止することにしました。

そこで、講演を予定していた許世楷・元駐日台湾大使に2・28事件について執筆して頂きました。是非、ご一読下さい。それに先立ち、2・28事件について概略を述べたいと思います。
1947年に台湾で起きた2・28事件は戦後の台湾史上、最も重大な事件であったにもかかわらず、日本ではほとんど知られていません。しかし、台湾社会の様々な背景を理解する上で2・28事件を知ることは大きな要素となると思います。

1 2・28事件に至る台湾の背景

まず、基本として、台湾人と中国人は異なる民族であるということを理解していないと、2・28事件も台湾の戦後史も読み解くことができない。台湾人は、有史以前から台湾に住む原住民族と16世紀後半頃から台湾に来た移民が共に暮らし、オランダや清朝や日本の統治を受けて出来上がって来た民族であり、中国大陸の政治や歴史とは全く別の歴史を歩んできた。

戦後、連合国軍の一員として台湾の接収に来た中国軍(国民党軍)は、不当にもそのまま台湾に居座り、台湾人の社会的地位も権利も財産も奪って、支配下に置いた。日本統治時代に法に基づき社会を運営していく近代精神を身につけた台湾人にとって、新しく支配者となった外省人(戦後来た中国人)の傍若無人な統治は耐えられないものであった。産業構造や社会秩序が破壊されたために、失業者があふれ、食糧難で餓死者まで出る事態になった。

 外省人に蔑視され、母語さえ禁じられた台湾人が、自らの置かれた立場に気付いた時には時すでに遅かった。今と違って、国際社会に窮状を訴える術もなかった。台湾人が頼りに思っていた日本は敗戦後、GHQの支配下にあり困窮していたし、力のある米国は蔣介石を支援していた。

台湾人は隠忍自重し、終戦から約1年半もの間、支配当局(中華民国行政長官公署)に抗議することもできず耐えていたのであった。
2・28事件はそんな鬱屈した世相の中で突発的に起こった事件であった。

2 2・28事件

 1947年2月27日の偶発的な事件に端を発した2・28事件はわずか一週間の間に、三つの大きな局面を段階的に踏んで、最後は中国兵による台湾人の大虐殺で幕を閉じた。

第一段階: 2月27日~3月4日 台湾人の怒りの抗議行動

2月27日夜 人々がくつろぐ繁華街・大稲埕の路上で、専売局員(外省人)が闇タバコ売りの女性を殴打し、止めに入った一般市民を射殺。

翌2月28日、この事件に抗議しようと市民が専売局に集まり、その後、行政長官公署へ行ったところ、無防備の市民に対し、機関銃による無差別掃射が行われた。これをきっかけに、日頃から外省人に不満を持っていた市民の怒りが爆発し、外省人を殴打したり、外省人の商店の品物を持ち出して火をつけるなどの暴動が頻発した。更にラジオ局を占拠して、全島に向け台北市民の蜂起を伝えたので、台湾人による抗議活動は全島に広がり、4日後の3月4日には東台湾へも波及し、台南では主要政府機関の全てを市民が占拠するに至った。

第二段階:
3月4日~7日 処理委員会による収束と三十二か条の要求

 台北では暴動発生からわずか3日目の3月2日、台湾人自らの手により「二・二八事件処理委員会」が組織された。暴動を収束させ理性的に台湾人の要求を出して政府と交渉しようとするもので、各地にも処理委員会が作られた。当時の台湾人の民度の高さを示すものである。
3月7日、「三十二か条の要求」が起草された。台湾人ももっと社会参画させてほしいという趣旨の要望で、格調高く、台湾人の「人権宣言」とも言えるものであった。受け取った陳儀長官は承諾した様子を見せたが、それは蔣介石が中国大陸から送ってくるはずの援軍の到着を待つ間のポーズであった。

第三段階; 3月8日~ 中国軍の援軍上陸と台湾人大虐殺

 3月8日、台湾人は新しい社会の到来に期待し、台南では新しい市長候補の選出が行われた。しかし、夜、蔣介石の送った援軍が基隆と高雄から上陸し、台湾人に対し、無差別殺戮を始めた。この大虐殺は2、3週間続き、その間に、社会のリーダー的な人々が逮捕され処刑された。犠牲者は約3万人と言われている。当時の台湾の総人口は約600万人で、その将来を担うべき人材が3万人も失われたことは、一時の損失だけでなく以後の台湾人の社会的能力と心に大きな傷跡を残すこととなった。

3 その後

 2・28事件以後、台湾人の間でこの事件に触れることはタブーとなった。殺された人の氏名や数は長い間把握されず、被害者家族の間でも、話題にすることさえできなかった。
2・28事件後も、「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治が行われ、反政府的だと睨まれれば、逮捕され長期刑や死刑に処せられた。2・28事件について語ることができるようになったのは、1990年代の李登輝総統の時代に言論の自由を取り戻してからのことである。

その後、歴史学者張炎憲氏が中心となって研究が行われ、張氏が国史館館長であった2006年に『228事件の責任所在研究報告』が発表された。この報告では「蔣介石が最大の責任を負うべきだ」と結論づけている。

2016年に蔡英文総統が政権を担ってから、「国家人権博物館組織法」及び「転型正義促進条例」ができ、国民党の専制政権下で起きた人権関連公文書、歴史資料、関連ファイルの収蔵、研究、展示、教育などが行われることになった。2・28事件や白色テロの被害を過去の事として蓋をする前に、まずは真相を明らかにしようとする取り組みは、勇気ある歴史認識作業である。これにより、2・28事件およびその後に続いた白色テロの悲劇は教訓として、生かすことができるようになるのである。(記・台湾独立建国聯盟日本本部 2021年2月)


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