られた「台湾の俳聖」黄霊芝(こう・れいし)氏が亡くなられた。
この訃報を本誌でお伝えしたとき、黄氏と親交が深かったエッセイストの酒井杏子(さかい・あ
んずっこ)さんが黄氏について書かれた一文を紹介しました。
先週末、酒井さんから追悼文「黄霊芝氏を偲んで……台湾の俳聖逝く」をお送りいただきまし
た。恐らく、黄霊芝氏が亡くなられてから日本でこのような氏の事績が紹介されるのは初めてのこ
とではないかと思います。10年を閲して交流を深めてこられた酒井さんならではの黄霊芝論であり
追悼の一文です。ここに改めて哀悼の意を表しつつご紹介いたします。
黄霊芝氏を偲んで……台湾の俳聖逝く
エッセイスト 酒井 杏子
春先に 旅立つ玩具 宇宙船 霊芝
(「台北俳句曾創立三十五周年記念」2005年7月10日)
爽やかな初夏の朝の光が、壁にかけられた白地の陶板の額に差し込んで、焼き付けられた氏自筆
の文字が楽しそうに踊っている。この季節、上句はどこまでも希望に満ちて明るい。
台北俳句曾の会員でもない私が、会の記念の額をいつ・どうして頂いたかは往時茫々で今では思
い出せないが、何かの折に氏が贈ってくださったものだ。
2016年3月12日 黄霊芝氏死去。享年87歳。
その生前の功績は大きく、2004年『台湾俳句歳時記』により第3回「正岡子規国際俳句賞」を、
また2006年には旭日小綬章の叙勲の栄誉に輝いた。
多岐にわたる幅広い分野で活躍したが、特に俳句は、台湾文学史上に確たる足跡を残した。
氏とは2003年に出版された『台湾俳句歳時記』を通して出会い、音信不通となった最晩年の2年
を除く約10年間交流を結んだ。実際にお会いしたのは一度だけだが、専ら電話・FAX・手紙での
気ままな交流は途切れることなく続き、仕事がらみや俳壇と無縁な立場の日本人としては、私は比
較的氏の素顔と接する機会を多くもてた方ではないかと思っている。
氏が亡くなられて早2ヶ月が経つ。
折に触れては記憶の糸を手繰り寄せつつ、在りし日の氏の言葉や面影を偲んでいるが、生前じっ
くりと考えてもみなかった黄霊芝という人の輪郭の一端でも浮き彫りにできたらと、筆を執ってみ
たしだいである。
ただその前に、かつて氏が電話で私に「先日、日本人女性で○○さんという人が私の伝記を書い
たというんだが、あれは(=本の内容)私ではない。私とは違う」とキッパリと仰られたことがあ
り、その時私は、ある人物の伝記や研究論文を出す場合、本人の存命中もしくは死後まだ日が浅
く、身辺に故人の日常での吐く息吸う息を知る人々がいる時期に発表することがいかに難しいかを
思い知らされた。
ひとは多面体である。対峙する相手によって見せる顔も、付き合う深さも違う。
私の知っている黄霊芝氏の印象が他人と同じとはかぎらない。それぞれの人が握る1ピースを集
めた後、初めて黄霊芝像の全容が描かれたジグソーパズルは完成するのである。
従って、ここではあくまでも私個人の黄霊芝像であることを前置きしたうえで、稿を進めていき
たい。
(1)「人嫌い」「仙人のような」
電話口での氏は(息が続かないこともあって)いつもゆっくりとした口調で、短いセンテンスに
区切りながら慎重に言葉を選んだ。安易な妥協はしなかったが、人の話は最後まで黙って聞き、そ
の上で自己のフィルターを通した忌憚の無い意見や率直な感想を直球で返すような人だった。
その内容は言葉数が少ないだけに鋭くて濃密。まるで会話自体が俳句の手法を体現されているの
では? と思えるほどで、私にとっては氏との電話は常に真剣勝負だった気がする。
それでも体調のよいときには茶目っ気のある冗談を挟んだり、よしんば優れない場合でも、敢え
てこちらから可笑しい話題を提供したりすると、しゃがれて消え入りそうなか細い声で「ふ・ふ・
ふ」と笑った。
こういうときの氏は、眼光鋭く人を寄せ付けない風貌からは想像もできないほど、陽気でお喋り
の好きな心楽しい台湾人であった。
尾(ボエ)牙(ゲエ)や口には出せぬ火の車 霊芝
(*現在の「尾牙」は主に社員一同を労う行事)
賓客にバナナごときを出すなんて 霊芝
氏の“人となり”を「人嫌い」「仙人のような」と評する人々がいる。
「仙人」との印象は、確かに台湾版・川端康成といった瘦身で人を射抜くような鋭いまなざしの
外観からも、世俗を離れて山に住む暮らしぶりからしても、あながち的外れとは言えないのだが、
本質的なところで氏が世俗を嫌い、人を疎ましく思っていたか? となると、私はそうではないと
思う。
氏が本当に人嫌い・世俗嫌いであったら、上句みたいな、川柳(せんりゅう)かと見紛(みま
が)うような“うがち”(=裏の事情をあばいたり、人情の機微など微妙な点を巧みに言い表すこ
と)のきいた句や、明るくてユーモアたっぷりに人々を描きとめる句など作れるはずがない。
俳句の底流には自然への情があり、川柳には人間への愛と慈しみがある。
だから一見皮肉っているかに読める上句の底には、悲しくも滑稽な人の営みや思いへの共感があ
り、さらにそれを別の次元から見つめている作家・黄霊芝の、人間に対する温かなまなざしを私は
感じてならないのだ。
ちなみに俳句に関して少し触れておくと、日本の俳句と台湾のそれとでは持ち味が違っている。
日本では「自然」が第一義であり、俳句とは自然が及ぼす人の心の動きや日常生活を諷(うた)
うもの。そのため自然の範疇でも特に「時候」の変化によって起こる現象を「季題」とか「季語」
といい、十七文字を支配する最も大切かつ大きな力を持つとされている。
日本の俳句の句風は台湾に比べると多分に「静」である。それは自然というものに耳を澄まし、
目を凝らし、心を添わして詠む文学だからであり、さらには日本古来の文学的土壌も加味されて、
例えば「秘すれば花」といった感情を抑えることによって広がりを増す品格が好まれたり、あるい
は滑稽な人事句だったとしても、その奥に潜んでいる人生の寂しさや深い味わいを引き出すよう
な、落ち着いた心持ちの句を良しとする。
これに対し台湾の俳句は台湾人らしい陽気さとおおらかさを備え、大雑把にザクリと光景や人心
を掴む傾向が特徴であり、お国柄とでも言おうか興味・関心の対象は自然よりもむしろ人間にあ
り、目で見て分かる事物に即した句が多いように思われる。
この特徴の違いが顕著に反映されているのが「歳時記」で、日台ではその目次の序列が異なって
いる。
全てに目を通してはいないが、日本の主だった「歳時記」の目次の配列は、「時候」「天文」
「地理」「人事」「動物」「植物」の順で、時候・天文・地理=自国の“自然”に関わる項目に最
も重点がおかれ、その次に“人事”がくる。
他方『台湾俳句歳時記』では「人事」が筆頭にきて、「自然・天文地象」「自然・植物」「自
然・動物」と続く。つくづく人が好きなお国柄なのだと思う。
日本の3つに細分化された「自然」は、台湾では「天文地象」一項目にくくられ、また動植物の
順も、台湾は動物より「植物」が先に配されて多くのページを割き、鮮やかな色どりの花や豊富な
果実が南国の台湾という風土を浮き彫りにしている。
いつだったか氏が「『俳句はあくまでも“詩”である。詩がなくて、目に映った物や情景を伝え
るだけではただの報告になってしまう』と、私は句会や勉強会で言っているんだけど」と、句作上
の心得を話しておられたが、現実的な人の営みに興味・関心があるがゆえに、ともすれば即物的に
陥りやすい台湾人の句風を戒めた言葉ではなかったかと、今にして思う。
あひる食ふ渡世(とせい)の話いつも銭 霊芝
俳句の話が長くなってしまったが、もし黄霊芝氏が本当に「人嫌い」「仙人のような」であった
なら、「人事」に主眼を置くような台湾の俳句や川柳の先達(せんだつ)になれただろうか、と言
いたかったのである。
けれど、こうした印象を受けた人が一人ならず存在するということは、氏の一面であったのも事
実だろう。
これについては後で触れるが、私は氏の病弱な体質と大いに関係しているのではないかと思って
いる。私も乳幼児の頃から虚弱なので、氏の行為行動に大いに共感するところがあって、少なくと
も体質的に虚弱な人間というのは健常者と同じキャパでは活動できない。無理はきかないし、体調
を整えるだけでも容易なことではないからだ。
この身体的条件を下地に考えれば、大胆な憶測も生まれる。
すなわち氏は一般社会にあっては、あくまで「人嫌い」「仙人」に成りすましていたのでは?
という憶測である。
それは世俗という空間に身を置いたときの、ともすれば巻き込まれたり翻弄されてしまうかもし
れない、面倒で煩雑な、義理や利害や雑事……といったものから身を守るための保身術ではなかっ
たか。
言い訳のひとつには、病身のエネルギーを無駄に使わないために。もうひとつは作家としての時
間を奪われないために。
だからだろうか、私の知る黄霊芝氏は実に合理性を好む人でもあった。
晩年、足腰が弱って別棟の令嬢宅にある電話に出るのに時間がかかり、体がかなり大儀そうだっ
たので、「これからはFAXに切り替えましょうか」と申し出ると、「いや、これでいい。電話がい
い」と断られた。理由は、一度に多くの話ができ、その都度相手の反応を窺いながら話を進められ
るというもので、一見アナログ派と見られる氏は、意外にも電話やFAXという文明の利器の合理性
を嫌っていなかった。
(2)日本語という工具(ツール)
黄霊芝氏が本領を発揮したのは、むしろ手書きのFAXや手紙の方だった。
その文面は電話より格段に饒舌であり、小ぶりな字がA4版のコピー紙を埋め、それが時に2〜3枚
に及ぶこともあった。
脳裡に浮かぶ考えや文言にペンが追いつかないのか、時にはミミズののたくったような字となり
判読するのに苦労したが、どれだけ筆が走っても一度として「て・に・を・は」の使い方を間違え
たり、文章の脈絡がおかしいと思った記憶はない。
このことは作家としての黄霊芝像を考える上で重要だと私は考えている。
何故なら氏にとって「日本語」が最も自然体で使える言語であり、自在に表現できる手段であっ
たことを物語っているからだ。
あまりにも日本語の語学レベルが高いので、つい氏が台湾人であるのを忘れがちだが、あくまで
も日本領時代に日本語教育を受けた外国人であった事実を思い起こせば、「日本領時代の日本語と
は一種の国際的共通語だった……一つの言葉や文字を日常工具(ツール)として使いこなす修練は
一朝にしてできるものではない」(『台湾俳句歳時記』より)とする氏らの努力と修練はいかばか
りであったろう。
余談だが、日本在住が長く、極めて日本語が堪能な戦後生まれの台湾人に「日本語はあなたに
とってどのような存在か」と質問したことがあった。その答えは「家庭で日常的に使っているのは
台湾語で、考える時は中国語。日本語は英語のように翻訳して使っている」と。この世代の台湾人
は戦後の中国語教育で育ち、黄氏の言う「一種の国際的共通語」は中国語という世代である。
黄氏の家庭の場合でも「具体的にいえば、たとえば私は日本語で妻を罵るが、戦後派の妻は台湾
語で巻くし立ててくる。すると戦後生まれの娘が中国語で喧嘩両成敗に乗り出してくる仕儀だ。
(上記『同書』)」の例のように、台湾では歴史と政治に人民が翻弄されて、日本領時代、戦後
派、戦後生まれと、それぞれの世代が異なった言語を使うために、世代間の意志の疎通がうまくい
かず、コミュニケーション不足や世代間の断絶に陥るという社会問題をいまだに引きずっている。
ともあれ黄霊芝氏をはじめ台湾の“日本語世代”と呼ばれる人たちは、普段から日本語で喋り、
日本語で考えるのが当たり前というのだから、単なるバイリンガルの域を越え、母国語同様あるい
はそれ以上に、人間の“核”となる思考をめぐらす回路(プロセス)や感情(感じ方)を表現する
手段に至るまで、日本語が滲透し血肉化した世代といえる。
民族や国にとっての本質的属性である「言語」の大切さと恐ろしさがここにある。
黄霊芝氏は、繊細で多様な表現力に富んだ日本の文学に魅了され、自らも足を踏みいれていくう
ちに、それらの表現者となるためには(外国語としての)“日本語を日常工具(ツール)として使
いこなせる”レベルまでに修練されていなければならないと悟った。
そして更には一日本語に留まらず、どの国や地域に芽生えた文学であっても、それを表現するに
ふさわしい“最適な工具(ツール)(その国や地域の言語)”があるという自論へと発展させて
いったのだと思う。
氏は、時代の大波をかぶれば、大切な言語までいとも簡単に変えられてしまうような歴史を見て
きた。その体験から、国や政治に信頼を置くことなく、自身を「“親台”でも“親日”でもな
く、“親日本語派”だ」と位置付け、生涯その信念を貫いた。
(3)――曇癖(くもりぐせ)――
父(てて)無(な)しの泣寝入りぐせ王爺祭(おうやさい) 霊芝
「泣寝入りぐせ」は人間の行為の習慣を表した言葉だが、「曇癖(くもりぐせ)」とは曇りやす
い傾向にある天候のタイプを詠むときの俳句用語である。
黄霊芝氏の一生を例えると、この「曇癖(くもりぐせ)」という一語に尽きるだろう。
曇がちな人生となった要因は「病」「時代」「行く末」で、これらは常に複雑に絡み合いながら
氏の生涯に影を落とした。
*「病」について
生前、聞き逃してしまったことがある。氏の俳号「霊芝」の由来である。
通常「霊芝」は、古来仙薬とも神薬ともあがめられる漢方薬か、または吉兆の瑞(ずい)草とし
ての意味をもつが、氏の場合はすがるような思いで、命を養う霊妙な働きのある漢方生薬に名を託
したかと思えるほど、病につきまとわれた一生だった。
数多(あまた)の病名のうちで、最も影響を与えたと思われるのは結核だ。当時不治の病とされ
た結核に年若くして罹患したことが、後年の俳句作家・黄霊芝ならびにその人間性を決定づけたと
私は考える。
19歳で発症し、16年にも及ぶ闘病の末、35歳で大吐血した時に医者から「もう治らない」と宣告
された。死を覚悟した氏は一切の結核治療を止めて、台北郊外の山に隠棲し、生活のために豚の飼
育や果樹栽培を手探りで始める。
けれどこの生活は貧困と苦しみの連続だったにもかかわらず、何が功を奏したか、結核は自然治
癒したのであった。
私が知っている晩年の氏は医者嫌いで、西洋医学に全面的な信頼を置いていなかったのも、多分
この当時の体験に根差したものだろう。近代医学の知識を鵜呑みにせず、不治の病を克服した自負
は、やがて自己の叡智を最大の拠り所として物事を判断・処理しようとする癖を習慣づけたのかも
しれない。
病気を悪化させたくない一念から、ありとあらゆる手段と可能性を模索したであろうし、そのこ
とが独自の行動規範を作らせたことは十分に考え得る。
黄霊芝氏を「気難しい人」「変わり者」と評する人たちは少なからずいる。
「気難しさ」は、氏を半病人と断ずれば理解できないこともない。この気質は病人一般に通じ
る、思うに任せない自己へのもどかしさの裏返しである。それと共に、我儘を通さなければ、余力
のある健常者と同等もしくはそれ以上に活動できないことを、氏が一番自覚していたからに他なら
ない。
先に述べた合理的な一面も、消費エネルギーの無駄を省き、最短・最速の効率よい方法を無意識
のうちに選択してきた結果ともいえる。
また、「変わり者」との評もこの延長線上に位置付けられはしまいか。
その代表的なエピソードに「(氏に)贈り物をしたら『私に物をくれないで下さい』と断られ、
不愉快な思いをした」というものがある。
誠に贈り主の心中は察するに余りあるが、これとても氏の年齢や健康状態・生活環境を慮(おも
んぱか)れば、嬉しく有り難いと感じる以前に贈答の煩雑さ自体が重いのだと想像がつく。
まして氏のように礼儀を重んじた戦前の日本の教育を受けた者なら尚更に、返礼が思うに任せぬ
ことは心苦しくあったろうし、贈答という習慣は時に苦痛に感じたであろう。
病人や虚弱ゆえの辛さと強引さは、氏は人より顕著だったかもしれないが、そこには本業から離
れた世俗的な雑事や煩雑さに時間をとられまいとする、作家としての処世術を私は見る。
それでも病気によって“土砂降り”の人生模様にならなかったのは、結核を患っても死ななかっ
たのと、自然と共生した生活を送る中で思わぬ拾い物をしたからだ。
作物の豊凶にかかわる天候や、移り変わる季節の遅速、自然界の動植物の営みを具(つぶさ)に
観察するうちに、俳句への関心が芽生え、自然を師とする俳人的な観察眼と感性が自ずから身に備
わっていった。後にこうした体験がこの人に“台湾俳句の先達”という大きな役割と、俳人として
の才能を開花させることになろうとは、一陣の風や野に咲く小さな花々はその頃知る由もなかった
が。
こうして死と向き合った若き日の結核は、氏の人生を狂わせたが、他方で氏の歩むべき別の道を
作った。もし死病を得なかったならば、あれほどの強い信念、鋭い観察眼、繊細な感情、日本語へ
の執着と探究心を氏が持ち得たかどうかは疑問である。
ただ、せっかく氏が病の淵から這い上がったにもかかわらず「曇癖(くもりぐせ)」の後半生と
なったのは、皮肉にも俳句を培った繊細で鋭い観察眼が、自己の身体に向いてしまったという置き
土産を残したためである。
氏は神経質なほどに体に現われる変化と諸症状に敏感だった。氏と交流した10年の間も、不眠症
による体の不調・低体温症・皮膚病・足腰の衰えによる歩行困難等々、病名は枚挙に暇なく、電話
やFAXでもそうした不定愁訴を訴えない時はなかった。
私の方としては少しでも氏の苦痛や心配が軽くなればと、何度懇意にしている漢方の薬剤師や医
師に相談を持ちかけたことか。
しかし諸症状の多くは加齢または体質によるもので、問診の限りでは重症とは言えず、対処法を
氏に返信するにとどまったが、それでも良いといわれたことは密かに実践していた節もあり、時々
結果報告をしてくるところなど、ごく普通の可愛らしい老人という一面ももっていた。
*「時代」について
黄霊芝氏の思いの中に、時代に翻弄された世代であるとの意識が暗雲のごとくいつも漂っていた
のは、私も氏の言葉の端々から感じていた。
先に「私は日本語で妻を罵る……戦後派の妻は台湾語で……戦後生まれの娘が中国語で……」と
いった氏の一家の笑い話のような逸話を挙げたが、ここに台湾人および台湾文学の悲運の一端があ
るのを、我々は見落としてはならない。
私は台湾の日本語世代の人々が中心となり組織する「友愛グループ」の末席に連なる身だが、そ
の会の高齢の御婦人はメールでこんな胸のうちを打ちあけてくれた。
彼女は日本人から「日本語がお上手ですね」と褒められるたびに『冗談じゃないわ。私たち台湾
人は好きでバイリンガルになったんじゃないのよ』との思いを飲み込むという。
彼女や黄霊芝氏たち日本語世代の台湾人は、一度ならず二度もこのような言語を分断される悲し
みを味わった。
一度目は日本統治時代の半同化政策によるところの日本語教育で。二度目は太平洋戦争後、中国
大陸で共産党軍に破れて台湾に亡命してきた中華民国・国民党の占領下において。
特に国民党が布(し)いた恐怖政治のもとでは、日本語の使用が厳しく禁じられ、中国語への転
換を余儀無くされるという苦痛を経験した。
後世の歴史評価がどうであれ、この二度の他国による言語の分断は歴史の真実であり、台湾人の
意志と感情に反した行為であったのは紛れもない事実だ。
人は教養と経験知で哲学をもつ。
黄霊芝氏の「時代」への憂いと無念さはこの経験知からきている。
最初の分断で、ようやく日本語を日常の工具(ツール)にまで使いこなせるようになった台湾人
は、戦前には日本語を使っての台湾文学を芽吹かせるにまで漕ぎつけた。
それが二度目の分断により、せっかく芽吹き始めた芽が踏みにじられたばかりでなく、葬り去ら
れようとしたのだ。
この時期、頭角を現し始めた作家たちは日本語による作品を発表・展開できず、失意のうちに文
学への情熱を奪われていった。その無念さを氏は肌で感じ、胸が潰れる思いで見てきたはずだ。そ
れは台湾の文学史上“失われた10年”の暗黒時代への無念さでもあった。
誰が悪いのでもない、この「時代」という得体の知れない化物、時に欲望につき動かされ、時に
なすすべもない「国家」という化物、それによって右往左往させられる民衆の弱さを氏の鋭い感性
は、諦めとため息をもって自己の哲学に昇華した。
氏に残されたものは、誰にも邪魔されることなく、揺るぎない形で心にとどめ置くに値した自己
表現の工具(ツール)=日本語だけであったのだろう。
氏は生涯、「国家」の恒久を信じなかった。国や為政者の滅びを見てきた人の哲学であり、余人
が口を挟む余地はない。
黄霊芝氏が「親日派」でも「親台派」でもなく、「私は“親日本語派”だ」と言ったのは、そう
いうことだと私は解釈している。
光復(こうふく)をしたかと問はれ嗤(わら)ひ合ふ 霊芝
*「行く末」について
台湾の文学は先の大戦後、文学史上“失われた10年”といわれた暗黒時代に遭遇する。
国民党政権は日本語の使用を厳禁し、時に日本語を使う者たちを生命の危機に晒した。戦前の日
本語による台湾文学の作家たちは、恐ろしさから貝となって口をつぐみ、文壇は風前の灯となっ
た。
黄霊芝氏の無念さと嘆きのひとつは、この日本語が使えなくなり、代わりの中国語が上陸してき
た間(はざま)で、母国語としての台湾語の復活と地位の確立がなかったことだ。
そしてもう一点は、台湾という独特な風土を身にまとった作家たちが、しかも(外国語である)
日本語で表現した異色の文学の成立への可能性が閉ざされてしまった点だ。
更には言語の分断により、かつて台湾語から日本語へとチェンジした折と同様に、今度は中国語
への言語習得へと、再びゼロから血のにじむような努力を台湾人は強いられたことだった。
幸いにも、消されかけた戦前の小さな文芸の灯は、民主主義に転じようとする台湾の努力と自由
な空気の中で、辛うじて日本語を母語のように使いこなす世代の台湾人によって、細流ながら伏流
水となって地表に湧き出した。 俳句や和歌や川柳だった。
黄霊芝氏が創立・主宰した台北俳句会もそのひとつであり、特に台湾の歌壇や川柳の昨今の盛況
ぶりは私も聞き及んでいる。
台湾に根づいた日本語の文学に違いない。されど、日本語の工具(ツール)であっても、台湾人
がその風土を背負って創作した以上、それは紛れもない台湾文学であり台湾文化だと私は思う。
にもかかわらず氏の顔を曇らせたのは、台湾の戦後世代は中国語が日常の工具(ツール)とな
り、日本語による台湾の俳句人が年々先細っていく現実だった。
氏はこれを憂慮し、たまたま60年代の半ばから70年代にかけて“俳句の国際化”が謳(うた)わ
れ出した頃、新たな試みを始めている。
漢語による漢文俳句(略して湾俳とよぶ)の試みである。
試行錯誤の結果、日本の俳句の核と心を残しつつ、文芸様式だけを黄霊芝流に変えた。
それと共に湾俳の会の教室も開いたりしているが、次々と問題が出て成果は出ていないと電話で
話されていたところをみると、いまだ定着はせず、会員は増えなかったようだ。
残念ながら漢語による湾俳は、まだ確立する途上にあって、氏もまた道なかばで逝ってしまった
と私は見ている。日本語の操れる台湾人の減少、それに伴う台湾での俳句人口の先細り等、氏が台
湾の俳句の将来に思いを残した問題は多々ある。
が、かの台湾のバイタリティで、いつか黄霊芝氏の遺志をつぎ、新しき若き世代を巻き込みなが
ら、何かしらの形として残っていってほしいと私は内心期待している。
今頃、氏はあちらの世で病に苦しめられることもなく、私の拙文の批評でもしながら、あの枯れ
た声を立てて「ほ・ほ・ほ」と笑っておられるであろうか。
さよならはあっさりが良し春の雲 夢民(むーみん) (酒井杏子の雅号)
合掌