る人物を紹介するまで、日本国内にその功績を知る者はほとんど皆無であったに違いな
い。私もまた、平野氏の記事によって初めてその存在と我が郷土の偉人であることを教
えられた。
鳥居信平は八十年以上も前に、台湾の最南端に位置する屏東県に独創的な地下ダムを
造った日本人技師である。
その工法が、風景や生態系を壊さず環境に配慮したものであり、現在も地域住民に恩
恵を与えていることなどから、今、台湾の専門家たちの注目を集めているという。
また屏東県の中学校では、副教材中で取り上げられるほどの人物だという。
その鳥居信平は、現在の静岡県袋井市から出た。
東京帝大農科大学を卒業後、徳島県技師などを経て台湾製糖に入り、当時、危機的状
況であった糖業界を救うべく、一九一四年台湾へと渡っている。農業土木における高い
専門的知識と技術が買われたのであろう。
平野氏も指摘するように、当時の台湾は、まだ治安も悪く、総督府に帰順することを
こころよしとしない原住民や伝染病などの諸問題が数多くあった。山奥に分け入って調
査をするだけでも大変な労力であったに違いない。
それが、画期的な灌漑設備を完成させただけでなく、原住民の尊敬を集め、後の世に
感謝されるほどの功績となるためには、鳥居をはじめとする日本人技師達の高い人間性
はもちろんのこと、当時の日本がいかに台湾と接していたかをうかがい知ることができ
るだろう。
またそれら日本人の功績を今なお、称えてくれる台湾の人々にも感謝せずにはいられ
ない。
これらは欧米列強の植民地政策とは明らかに一線を画すものである。
余談ながら、平野氏の記事を読んだ袋井市民の多くは、
「このような人物が我が町にいたか」
という素直な感動と共に、
「あの鳥居鉄也(とりい・てつや)氏の父親か」
という事実に驚きを隠せないでいる。
鉄也氏は南極地域観測越冬隊長を二度も務められた人物で、地元では英雄視されてき
た。
南極に旅発つ鉄也氏を見送った記憶を持つ者は、当時、月ほども遠い南の最果てを想
像しながら、この人は生きては戻れないだろう、と密かに思ったという。その人が、南
極の石を山ほども抱えて無事帰還した時の郷土の興奮というのは想像に難くない。
当時の熱が未だ冷めやらぬ人々にとって、突如現出した鳥居信平の功績は、眩しすぎ
るであろう。息子である鉄也氏の偉業を重ねながら、さもあらんと得心する者があれば、
このような人物を親子二代にわたって輩出した土壌にいかなる要素があるものか首をひ
ねる者もいる。
いずれにしても、このことがきっかけとなって袋井市や地元の人々も動き出している。
望外の事に、台湾の「奇美文化基金会」より鳥居信平の胸像を寄贈していただく話も
進行中である。
「奇美文化基金会」は、奇美実業の創業者である許文龍氏が会長を務めており、八田
與一など日本統治時代に台湾民衆に貢献した日本人を顕彰する活動をこれまでにも行っ
てきた。
残念ながら、この原稿を書いている正にこの時、鳥居鉄也氏の訃報に接することにな
った。
ご冥福を心からお祈りしたい。
また鳥居信平については、来春出版予定だという平野久美子氏の著書にて詳細をご一
読いただきたい。
【機関誌『日台共栄』11月号 台湾と私(22)より】