介したことがあった(2008年 4月27日号)。インパクトの強い写真と河野氏の簡潔な解説
が「台湾の根」を顕にしたような印象を受けた。
河野氏は「ずっと書籍版写真集を出したいと思っていたが、ひとりでも多くの人の目に
触れることを願って、作品をウェブで公開することにした」として、2007年10月に『河野
俊彦の台湾写真集』というサイトを立ち上げ、1982年から撮り続けてきた写真を公開し
た。それが「独裁国家から民主国家へ 四半世紀の台湾“叙情史” (WORKS 1982-2007)」だ
った。
その後も、「北港朝天宮 1982 媽祖の生誕祭」、「棄てられた皇軍兵士たち―台湾人
元日本兵」、「独裁者像の墓場 慈湖紀念雕塑公園」、「緑洲山荘という名の政治犯監
獄」などを発表している。
そして、このたび「25年ぶりに、台湾人旧日本兵に会いにいった」として、「棄てられ
た皇軍兵士たち―台湾人元日本兵」の続編となる「高砂義勇兵ふたたび―最後の台湾人元
日本兵」を公開した。
大東亜戦争に従軍した台湾出身の軍人や軍属者は20万7,193名、うち3万304名が戦歿して
いる(昭和48年4月14日 厚生省発表)。
台湾出身の戦歿者は靖國神社などに祀られているが、戦歿者や遺族に対しては恩給など
の補償は何もなされなかった。そこで、台湾人元日本兵らが昭和52(1977)年に裁判を起
こしたものの、法廷闘争の末に得た判決は無残なものだった。控訴も上告も棄却された。
河野氏が高砂義勇兵の写真を撮ろうと思い立ったきっかけは、この台湾人元日本兵の裁
判だったという。
河野氏はこの裁判のことや、宮崎繁樹・明大教授が代表となり、台湾独立建国聯盟を設
立した王育徳氏が事務局長となって設立した「台湾人元日本兵の補償問題を考える会」が
主導して議員立法で制定した法律に基づき、一人200万円の弔慰金を支払うことになり、最
終的に2万9,645名の台湾人に総計592億9,000万円が支払われたことなども詳しく記している。
<あれから25年。高砂義勇兵のほとんどは大正時代〔1912〜1925年〕の生まれだから、
もう85歳を超えている。ご存命だとしても、昔の記憶が確かな方はそう多くはないだろ
う。かつて取材した方のほかにも、誰かお元気な元義勇兵がいればぜひ会っておきたい。
かくて2010年、元義勇兵に会うという目的で台湾を再訪することにした。そこには、若い
日に(人の依頼ではなく)自主的に手を付けた仕事のその後を見とどけたいという思い
と、(撮るべき被写体というより)人間に会いに行きたいという気持ち。そして、(あと
から思えば)「父」を理解したいという心情も混じっていた。大正生まれの私の亡父と同
世代のあの人たちは、その後どうなったのか?>
本会のホームページで『河野俊彦の台湾写真集』を案内し、今回の「高砂義勇兵ふたた
び―最後の台湾人元日本兵」も紹介している。ぜひご覧いただきたい。
◆ 高砂義勇兵ふたたび―最後の台湾人元日本兵
http://kohnotoshihiko.com/takasago00.htm